「私は あなたを誤解していたのかもしれないわね、ハーデス。あなたがこんなに親切な神だったなんて、私は ちっとも知らなかったわ」
知恵と戦いの女神アテナと冥府の王ハーデス。
二柱の神は、地上世界の存亡をかけて 神話の時代から幾度となく聖戦を繰り返してきた敵同士である。
にもかかわらず、アテナは、登場するなり開口一番、彼女の不倶戴天の敵である冥府の王を褒め立てた。
「アテナ……」

他者を褒めるという行為は、褒める側の人間の心に余裕がなければできない行為である。
もし今 地上世界がハーデスの力によって死と静寂の世界に変えられてしまっていたなら、ハーデスが どれほど優れた行ないをしたとしても、アテナは彼を褒め称えることはできなかっただろう。
アテナがハーデスを褒めることは、つまり そういうことだった。
彼女が守ろうとしていたものが守られ、彼女に余裕があるということ。
彼女が勝利者であるということ。
当然、アテナの称賛(?)は、ハーデスにとって快いものではなかった。
「余が親切とはどういうことだ」
不機嫌そうに、冥府の王がアテナの称賛の意味を問う。
アテナは(ハーデスにとって)憎らしいほど明るい笑顔を、彼女の敵に向けた。

「だって、あなた、それは 氷河の代わりに瞬に恋の告白をしてあげているようなものよ? 瞬を思う氷河の心が、神の心を引きずり倒してしまうほど強くて清らかなものだなんて」
それでなくてもハーデスの証言に鼓動を速めていたらしい瞬が、アテナの明言を聞いて、ぽっと頬を朱の色に染める。
そんな瞬に楽しそうな一瞥をくれてから、アテナは重ねてハーデスの行為を褒め称えた。
「あなたにも 瞬を喜ばせるようなことができたのね。私の聖闘士を喜ばせてくれたことに免じて、私の薔薇を凍りつかせてしまったことは不問に処してあげましょう」
知恵と戦いの女神は、どこまでも余裕に満ちている。
その余裕綽々振りが癇に障って、ハーデスは『あなたの薔薇のプリザーブドフラワー化の責任の半分は、あなたの聖闘士にある』と主張することもできなかったようだった。
余裕でいっぱいの天敵相手に自己弁護することを、ハーデスのプライドは彼に許してくれなかったらしい。

花の命は いつかは終わるもの。
冷厳たる その事実を知っている一輝には、既に凍りついてしまった薔薇の命より、今 確かに生きている弟の身の方が、より重要で大事なものだったのだろう。
ハーデスの証言の ありえなさに言葉と思考力を奪われかけていた一輝が 何とか気を取り直し、ハーデスよりは 比較的信頼のおける彼の女神に、
「アテナ。それは あり得ることなのか。ハーデスが氷河の身体を支配することは」
と尋ねていく。
ハーデスは信用ならないが、氷河も信用できない。
『氷河がハーデスの憑依を許すほど清らかな男だった』という事実(?)は、なおさら信じ難い。
何が事実で、何が嘘なのか。
それとも すべてが偽りなのか。
今 この場で信じるに足る人、物、事は何なのか。
何もかもが疑わしく 信じられるものがない三角形の一角で、彼は藁にもすがる思いで、アテナに尋ねたのだったかもしれない。

「そりゃ、助平心が必ずしも汚れたもんだとは言わねーけど……清らかな助平心ってのもあるのかもしれねーけど、それでも『氷河が清らか』はねーよなー」
一輝同様、ハーデスも氷河も信用しきれないという顔をして、星矢が 瞬の兄の横でぼやく。
そして、ハーデスは、疑念をアテナに向け始めていた。
「これは あなたの策略か」
清らかな人間にしか憑依しない――憑依できない自分を、ハーデスは疑うことができない。
だが、現に自分は、到底 清らかとは思い難い男に憑依してしまった。
ハーデスは、他の神の干渉や陰謀の可能性を考えるしかなかったのだろう。
しかし、アテナは首を横に振った。

「私が 氷河を清らかな魂の持ち主に変えたとでも? いいえ。残念ながら、神にも 人の心を動かすことはできないわ。人の心は神にも変えられない。それは、あなたが誰よりも身に染みて知っていることでしょう」
仲間を、地上に生きる人々を、光を思う瞬の心を ついに屈服させることができなかったハーデスは、アテナのその言葉を信じないわけにはいかなかった。
海を動かし、天を動かし、星を動かすことさえできる神も、人間の心を変えることだけはできないのだ。
それが 世界の法則。
神と人間との間にある、変えようのない法則だった。

自身の不干渉を宣言してから、アテナは その場にいる者たちの顔をぐるりと見渡した。
星矢も紫龍も一輝も、この不可解な現象の当事者であるハーデスも氷河も、まるでキツネにつままれたような顔をしている。
何を信じればいいのかが わからない。
そもそも この世界に信じるに足る不動の真実というものは存在するのか。
その場にいる者たちは皆、そう言いたげな顔をしていた。
ただ一人を除いて。
その ただ一人の人を微笑で見詰めてから、アテナはゆっくりと、再度 口を開いた。

「実際のところがどうだったのか、それは私にも わからないわよ。ただ、“清らか”というのが、汚れを拒む力でないことは確かだと思うの。少なくとも、ハーデスが憑依するために必要な“清らかさ”は、汚れを認め、受け入れ、その上で浄化する力なのだと、私は思うわ」
「沙織さん……」
「瞬、あなたも言っていたでしょう。敵を倒し、傷付け、自分の命を永らえるために 他者の命を奪っている人間である自分が 清らかな存在であることができるのかって。でも、ハーデスにとって、瞬は地上の誰よりも清らかな存在だった」
それは事実だったらしい。
他の誰でもないハーデスには、それは疑いの余地のない事実だったのだろう。
彼は、アテナの言に おもむろに頷いた。

「もちろん、罪は犯さないにこしたことはないのだけれど……。そうね。人間は汚れた存在なのだと決めつけ、諦め、絶望することをせず、永遠に来ないかもしれない平和の日のために戦い続けることを辞さない心の強さのことこそを“清らか”というのかもしれないわね。自分の罪を意識していない者は清らかな存在ではありえない。生まれたばかりの赤ん坊は無垢ではあるけれど、清らかではない。罪を知らないだけ」
「その考えを否定することはしない。だが、だとしたら、なぜ余は――」
『なぜ余は、白鳥座の聖闘士に憑依することができたのか』
それがハーデスの知りたいことだった。
まだ その答えに辿り着けていないらしいハーデスに、アテナが少々 呆れたような目を向ける。
そして、アテナはきっぱりと、だが実にあっさりと、言ってのけた。

「あなたの憑依のために満たされていなければならない条件の“清らか”がそういうことなのなら、答えは わかりきっているでしょう。つまり、氷河が清らかな人間だったということよ」
「余は冗談を聞きたいわけでは――」
「もちろん、私も冗談なんか言っているつもりはないわ。氷河は、瞬に対してだけは、瞬の前でだけは、自分の罪からも弱さからも逃げない強さを持てるのでしょうね。つまり、氷河は、瞬に この上なく清らかな純愛を捧げているわけ。まあ、でも、それは考えてみれば当然のことよ。でなかったら瞬が、各種コンプレックス満載で、奇天烈なことしかしないし できない氷河に心を委ねるわけがないわ」
「――」

またしても城戸邸の庭に 死のような静寂が出現する。
二度目の長い静寂を最初に破ったのは、今度は瞬の兄だった。
「清らかな純愛ーっ !? このド助平がかーっ !? 」
地上世界の滅亡の時が目前に迫ったかのような――むしろ、世界の断末魔のような叫び。
そして、それは、その場にいる多くの人間の心を代弁する叫びでもあった。

『氷河が清らか』
もし それが事実なら、この地上に 清らかでない人間は ただの一人も存在しないに決まっているのだ。
一輝の叫びは、城戸邸の門を越え、都内の高層ビル群を越えて進み、やがて日光連山に阻まれて木霊になり、関東平野に響き渡った。
その木霊が更に房総丘陵にぶつかって 弱まり、消えた頃。
一輝のように雄叫びを響かせることはしないが、おそらく一輝と全く同じ 憤りと世界への不信に支配されているハーデスが、目眩いをこらえるように その額を手で押さえ、喉の奥から震える声を洩らした。

「余……余は、しばし、アテナの壺の中に戻って、“清らか”の意味を考えてくる。たとえキグナスが本当に清らかなのだとしても、余には余の好みというものがある。余は、可憐で清純で物静かで控えめな可愛子ちゃんタイプが好きなのだ。こんな図々しい卑劣助平男が、たとえ一時でも余の依り代になり得るなど、冗談ではない。信じられぬ――信じるものか」
『氷河 = 瞬に清らかな純愛を捧げる男』という等式がもたらした衝撃が大きすぎたのか、ハーデスが異様なほど正直に 己れの本音を吐露する。
そうしてから彼は、亡霊のように白い顔をして、ふらふらとふらつくように その場から消えていった。

ふいに、いやにあっさりと三角形の一点が消失したことで、氷河と一輝の間に 一直線の新たな対立が生じることになるのかと、星矢と紫龍は懸念したのだが、その懸念は杞憂に終わった。
『氷河 = 瞬に清らかな純愛を捧げる男』の等式は、ハーデスのみならず瞬の兄に対しても 尋常ならざる衝撃を与えていたのだ。
「俺も 図書館で、“清らか”の意味を調べてくる。“清らか”というのは、瞬やエスメラルダのように、我が身を犠牲にしても他者を守ろうとする強く優しい心を言うはずだ。氷河ではない。断じて、氷河ではない」
一輝には一輝の信奉する“清らか”の定義があり、にもかかわらず、アテナの見解を真っ向から否定できるほどの論理を見い出せないことが、彼のジレンマを より大きなものにしているらしい。
そのジレンマを体現するような怪しげな足取りで、一輝もまたハーデス同様、城戸邸の庭から立ち去っていった。






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