瞬が起きてきたのは午前9時過ぎ。
10時になっても部屋を出てこないカミュの分の朝食をどうしたものかと瞬が案じ始めたので、氷河は師の様子を見るために彼にあてがわれた客用寝室に向かったのである。

カミュは既に起きていた。
ベランダに置かれたロッキングチェアーに身体を預け、城戸邸の庭と その上に広がる空を――あるいは、目では見えない何かを――放心したように見詰めている。
彼はいつもの時刻に起床しなかったのではなく、どうやら そもそも昨夜 眠りに就かなかった――ようだった。

「カミュ」
「視界を遮るもののないシベリアの雪原とは違って、隠れんぼには最適の庭だな。ここで おまえはアンドロメダたちと転げまわっていたのか」
「隠れんぼの時は、俺はいつも まず最初に瞬を探し見付けましたよ。鬼になった瞬に、俺を見付けてほしかったから」
『氷河、みーっけ!』
そう言って嬉しそうに瞳を輝かせる瞬を見るのが、おそらく 隠れていた仲間を見付けて喜んでいる瞬よりも嬉しかった。
あの時の胸の高鳴る感じ・・を、氷河は今でも はっきりと思い出すことができた。
昨夜のカミュの いつまでも終わらない思い出話に、氷河は『よく憶えているものだ』と感心し、呆れもしたが、人は確かに憶えているものらしい。
それが大切なことであるならば。

「シベリアに帰ってくるつもりはないのか」
城戸邸の庭と空、今は そこにいない子供たちの姿を見詰めたまま、カミュが氷河に尋ねてくる。
家庭訪問の連絡を受けた時から、発せられるに違いないと思っていた問い。
氷河の答えは決まっていた。
「冷たく張り詰めたシベリアの空気に触れたくなったら出掛けていきます」
「出掛けて?」
「はい。今の俺には、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たちがいて――今では 仲間たちのいるところが俺の帰る場所なんです。俺は仲間たちから離れられない」
「仲間たち――。名指ししなくていいのか」

初めて氷河の方を振り返って、カミュが問うてくる。
彼は、なぜか自嘲するように薄い笑みを浮かべていた。
昨夜 凄まじい死闘を繰り広げた相手。
あれだけ長い間 微笑の拳を交わし合っていたら、いやでも“敵”の心が感じ取れてしまうのだろう。
いくら世事俗事に疎いカミュにでも、さすがに隠し通すことは無理だと、氷河は覚悟を決めた。
「瞬は、そういうことは気にしないんです。俺は瞬に名指ししてもらえないと、すぐに機嫌を悪くするんですが」
「そんな我儘坊主の相手をしなければならないとは、アンドロメダも大変だ。――アンドロメダは、私やミロや……黄金聖闘士たちを恨んでいるのか?」
「……」

カミュのその言葉に驚いて、氷河が一瞬 瞳を見開く。
その時には、カミュは既に その視線を庭の方に戻していた。
自分の立場に気付いていないのだとばかり思っていたのに、いったいいつから、いったいどうして彼はその事実に気付いたのか。
ミロがカミュに知らせるはずはなかった。
興味本位の物見遊山の振りを装い、その実 瞬の攻撃から友人を守るために、彼は この家庭訪問についてきたのだ。
アイザックは、瞬の師のことを知らないのだから、彼から漏れるはずはない。
瞬は カミュを恨んでいないのだから、カミュが瞬の態度から気付くはずもない。
いったい誰から、どうやって――カミュは どうして気付いてしまったのか――と考えを巡らせたあとに氷河が辿り着いた答えは“白鳥座の聖闘士”だった。
それはカミュに直接 責任のあることではないのだから気付かぬままでいてほしいと望んでいた自分が、瞬とカミュの間にいることで緊張し、そうと悟られるようなことをしてしまったのだ。
瞬とカミュにばかり気を取られ、己れの振舞いに注意を払っていなかった自身の迂闊に、氷河は胸中で舌打ちをした。

気付かぬままでいてほしいと思っていたのに――。
だが、これでよかったのかもしれないと、氷河は思い直したのである。
おかげで、氷河はカミュに本当のことを言うことができたから。
「もし瞬があなたを恨むような人間だったら、俺も瞬から離れることができただろうに」
「そうか……」
カミュは相変わらず氷河に背を向けたままだった――城戸邸の庭を見詰めたままだった。
そのため、氷河には、その短い返事だけでは、カミュが弟子の言葉を信じたのかどうかが わからなかった。
だから――カミュに杞憂を抱かせないために、氷河は言葉を重ねたのである。

「あなたを恨む権利が自分にあると気付いても、瞬は その気持ちを消し去ります。あなたが俺の師だから」
「おまえの師だから?」
「俺の師の友人だから、瞬はミロも恨まない。紫龍の師だから、瞬は老師も恨まない」
「……そんなふうな考えでいたら、アンドロメダは、恨んだり憎んだりできる者が この地上に一人も存在しなくなってしまうではないか」
「瞬は、恨み憎むことより、愛し許すことを選ぶ人間なんです」
「なるほど」

カミュの肩から、僅かに力が抜ける。
その様を見て、氷河は、瞬に他意のないことをカミュが信じ安堵したのだと思ったのだが、カミュの心を安んじさせたのは そういうことではなかったようだった。
「私の弟子だということで、おまえまでアンドロメダの憎しみを買っていたらと案じていたのだが、馬鹿な取り越し苦労をしたものだ」
カミュが案じていたのは、彼自身ではなく、彼の不肖の弟子だったらしい。
そうだったことを知って、彼の不肖の弟子は、瞬時 言葉に詰まってしまったのだった。

「あなたが俺を愛してくれていたことはわかったと、夕べ瞬は言っていました。いい人だと。俺を今の俺に育ててくれた人だと」
「夕べ、あれから?」
「あ……いや、その……今朝になって……」
これでは気付かれたくないことも気付かれ、知られたくないことも知られてしまう。
氷河は自分の迂闊に 再度 臍を噛んだ。

いつのまにかカミュは、城戸邸の庭に 幼い頃の氷河の姿を探すのをやめ、掛けていた椅子から立ち上がっていた。
そして、彼は、今の氷河を見ていた。
「本当に、馬鹿な取り越し苦労をしたものだ」
もう一度 そう言って、カミュは、きまりの悪い顔をしている不肖の弟子に、半ば以上が苦笑でできた笑みを投げかけてきた。






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