「よし、決めた。盛大な結婚式を挙げよう」 「えっ」 二人がいるのは、今はまだ夜の世界。 燭台の灯りが 瞬王子の白く なめらかな肌を 更に白く染め、照らし出している。 この華奢で繊細な肢体の持ち主が、細い腕で剣を振るい、凶悪な怪物を難なく叩き伏せてしまうのだから、人は見掛けによらない。 重く長い鉄の剣を、瞬王子は細い柳の若枝を手にしているように軽やかに扱う。 瞬王子は、極力 自分の力を使わず、剣に加わる重力や遠心力を巧みに使う戦い方をするのだが、氷河王子の目には それは、瞬王子の手指に触れてもらえた武器たちが、喜びのあまり 瞬王子の負担にならないよう 自ら 重さを消し去っているように思えてならなかった。 他でもない氷河王子自身の心身が、瞬王子の手に触れられると、瞬王子の剣のように軽くなり、空気の中に溶け込んでしまいそうになるから。 「結婚式……って、誰の?」 その瞬王子が、氷河王子の腕に指先で触れながら尋ねてくる。 瞬王子の中に沈み込んでいた時の感触と陶酔を思い出し、つい緩みそうになった目許と口許を 意識して引き締めて、氷河王子は瞬王子に答えた。 「無論、俺とおまえの」 「え?」 氷河王子の言葉が理解できなかったのか、瞬王子が 寝台の上で僅かに上体を浮かせ、氷河王子の顔を覗き込んでくる。 その様子が 可愛らしくて、氷河王子の中には、その姿と瞳を いつまでも見詰めていたいという強い願いが生まれた。 が、同時に、その可愛らしい存在を全身で(物理的に)確かめたいという切実な欲求もまた湧いてくる。 どちらの望みに従うべきかを迷ったあげくに後者を選び、氷河王子は 瞬王子の腕を引いて、その身体を自分の胸の中に抱きしめた。 「二人の式のために、すべての神々を祀る 「氷河、あの……」 「そうすれば、俺は、おまえを日陰の身にしておかずに済むようになるんだ。俺たちは、太陽の下で、恋を語らうことができるようになる。おまえの兄に認めてもらえなくても、シルビアンに排斥されても、他のすべての人間に俺たちの恋を知らせ、それを正当なものだと認めさせることができたなら、俺たちの恋も尊厳あるものになるだろう」 「……」 氷河王子の提案は、瞬王子には思いがけないこと――考えたこともなかったこと――だったらしい。 氷河王子の胸の中で、瞬王子は一瞬 身体を強張らせた。 それから、氷河王子の胸の上で身体を少し上方にずらし、まるで氷河王子の正気を確かめようとするかのように、その瞳を見詰めてくる。 もちろん、氷河王子は真面目も真面目、大真面目な顔をしていた。 「で……でもね、氷河。そんなことしなくても、僕は氷河のことを好きだし、それにあの――」 「それに?」 「氷河のものだし……」 今にも消え入りそうな小さな声で 恥ずかしそうに そう言うと、瞬王子は自分の言葉のせいで身の置きどころをなくしたように瞼を伏せ、氷河王子の胸に顔を埋めてしまった。 氷河王子は、思わず猫になって その場でごろんごろん床を転げまわりたい気分に襲われてしまったのである。 瞬王子のためなら100万回 死んでもいいと、氷河王子は本気で思った。 だが、100万回死んでしまったら、可愛い瞬王子を抱きしめることができなくなるので、すぐに『100万回生きてもいい』に、その考えを変更したが。 「瞬。だからこそ、俺はおまえの愛に報いたいんだ」 「で……でも、あのね、氷河。僕たちは男同士で、普通は どんなに愛し合っていても成婚の式なんて挙げないと思うんだ。そんな前例のないことをしたら、伝統を重んじる神々だって、立腹するかもしれないでしょう?」 瞬王子は慎重で、遠慮深く、忍耐強い。 耐えて耐えて耐えきれなくなった時の大胆さも 瞬王子の魅力ではあるのだが、そんな場面には ベッドの上以外の場所では滅多に お目にかかれない。 氷河王子は、であればこそ、そんな瞬王子の分も積極的かつ能動的に、二人のために行動しなければならなかった。 そうなのだと、氷河王子は思っていた。 「誤った伝統は正されなければならん。俺が思うに――」 「氷河が思うに?」 「オリュンポスの有力どころの神々だけでも、大神ゼウスは女好きのくせにガニュメデスを誘拐しているし、アポロンはヒュアキントスやキュパリッソスと恋仲になったあげく失恋、ポセイドンはペロプスを誘拐したり、テッサリアの姫カイニスを男に変えたりしたりしている。あれは、相手が女だと、結婚だの家庭だのと面倒事が多いからだと思うんだ。恋人が男なら、女と違って面倒がなく、気楽に純粋に恋を楽しめるからな。だが、俺は そんな神々とは違う。俺は、そんな無責任なことはしない。俺は一生をおまえと共に過ごすつもりだし、おまえの恋人として おまえの一生に責任を負うつもりだ。俺は、神々の前で その誓いを立てる」 いかなる迷いもない断固とした その決意は 瞬王子を感動させ、喜ばせるに違いない――という氷河王子の推察は、残念ながら現実のものにはならなかった。 遠慮深い瞬王子は、氷河王子の決意を聞いて、むしろ困ったような顔になった。 「ね……ねえ、氷河。わざわざ そんな誓いを立てなくても、僕は氷河を信じてるよ。それに……男神の事情はともかく、肝心の婚姻の女神ヘラが、伝統を無視した行ないに 機嫌を損ねるかもしれないでしょう? ヘラは とても保守的な女神だし――怒らせたら恐いよ、きっと」 「確かに、ヘラがゼウスの浮気相手の女たちをひどい目に合わせた話はよく聞くな。だが、あれは、そもそも浮気をする方が悪いだろう。ゼウスと違って、俺は生涯 おまえ一人だ。浮気なんかしない。一生 おまえだけを守る。ヘラは、ただ一人の恋人に永遠の忠誠を誓う俺を祝福することはあっても、機嫌を損ねることはないと思うぞ。神々の女王ヘラなら、俺が どんなにおまえだけを愛しているかくらいのことは 容易にわかるだろうしな」 「……」 男女を問わず無責任な恋を楽しんでいる男神たちより、家庭と婚姻の女神ヘラの方が、互いに忠誠を誓い合う二人の結びつきを、(浮気者の夫への当てつけも兼ねて)歓迎してくれるに違いない。 それが、氷河王子の考えだった。 だが、慎重で 遠慮深く 忍耐強い瞬王子は、その上 とても心配性。 一国の王子としての自覚も、氷河王子の数倍、数十倍。 瞬王子の懸念を 極めて独特な理論(非常識な理屈ともいう)で退けた氷河王子に、瞬王子は また違う懸念を呈してきた。 「神殿を建てて、盛大な式を挙げるなんて、まさか国民からの税金を使うつもりなの? そんなことは――」 瞬王子の次なる懸念。 それを、氷河王子は、今度は非常識な理屈を振りかざすことはせず、一笑に付した。 「俺を誰だと思っている。当代3本の指に入る英雄だぞ。俺は、俺たちの結婚式のために エティオピアの国庫からもヒュペルボレイオスの国庫からも、銅貨一枚減らさない。そうだな。まず、コルキスの不眠龍を倒して金羊毛皮を手に入れ、ヘスペリデスの園の百頭龍を退治して 黄金の林檎を5、60個ほど調達してこよう。トロイア陥落の際、アエイネスが持って逃げたトロイア王家の財宝がエーゲ海のどこに沈んでいるのかも、俺は知っている。船が近付くと大渦巻を起こして遭難させるカリュブデスという化け物が守っているんだが、それも倒して手に入れてこよう。まあ、それだけあれば、神殿を建てて、祝福に駆けつけてきてくれた民たち全員に、祝いの酒肴を振舞っても、まだ余裕で余るだろう。大丈夫だ」 「……」 これまで氷河王子は、怪物退治をして その代価を求めたことはなかった。 氷河王子にとって怪物退治等の英雄的行為は、自分の力を試す機会にすぎなかったのだ。 そして、それは、瞬王子に出会ってからは、瞬王子の恋人に箔をつけるための手段に変わった。 今は、てっとり早い結婚資金調達法。 氷河王子には 権力欲や物欲はなかったが、それは 彼が無欲な人間だということではなかった。 彼は、彼が欲するものを手に入れるためなら どんな労苦も努力も惜しまなかったし、成し遂げたいことを成し遂げるためになら、いかなる試練も必ず乗り越えてのける男だった。 彼が今 欲しいものは、盛大な結婚式を挙げ、そうすることによって、こそこそ夜陰に紛れたりせず、太陽の下で堂々と 愛する人と恋を語り合える状況。 その望みを叶えるためになら、労苦を厭うつもりはなかった。 「氷河、本気なの」 瞬王子が不安そうに――むしろ悲しげに?――氷河王子に尋ねてくる。 「僕が氷河を好きだっていう、その言葉だけじゃ足りないの?」 氷河王子は、瞬王子のその言葉を、それこそ無欲恬淡な瞬王子の遠慮だと解した。 本当は瞬王子とて、こんなふうに こそこそと人目を避けて会うことしかできない二人の現況を悲しく思っているに違いないのだと。 「一輝やシルビアンや――おまえの愛する者たちに俺たちのことを認めてもらえないのは、俺の不徳のせいだ。奴等も少々 頑なに過ぎるとは思うがな。あの二人は無理でも、俺は、他のすべての人間に俺たちの恋を認めさせてやる。そして、おまえが肩身の狭い思いをしなくて済むようにしてやりたいんだ」 「僕、肩身の狭い思いなんてしたことないよ」 「……」 瞬王子は優しいから、恋人を責めないために そんなことを言ってくれるのである。 氷河王子はそう思った。 その気持ちは嬉しい。 だが、であればこそ、氷河王子は、瞬王子の優しさに甘えるわけにはいかなかった。 瞬王子の手を取り、その指先に口付ける。 瞬王子の優しく無欲で細い指。 氷河王子は、この清らかな指と瞳の持ち主は明るい光の中にいることこそ ふさわしいと、改めて思った。 「おまえは もう少し我儘になっていいんだぞ。遠慮することはない。おまえの願いなら、俺はどんな願いでも叶えてやりたいんだから」 「僕の願いは――」 「10日間ほど出掛けてくる。ああ、そういえば、グライアイの魔女のところにも、あの魔女たちに食われた人間たちが身に着けていた宝飾品や宝剣や金の鎧がごろごろ転がっているという話だったな。おまえといる時間を減らしたくなくて、しばらく中断していた怪物退治を一気に片付けてくるぞ。おまえのためなら、怪物たちも喜んで俺に退治されてくれるだろう。心配はいらない」 「氷河……」 慎重で控えめで忍耐強く心配性の瞬王子が、切なげな目をして氷河王子を見詰めてくる。 おそらく瞬王子は、自分のために危険の中に身を投じようとしている恋人の身を案じているのだろう。 だが、おそらく瞬王子は、瞬王子の名誉回復のために試練に挑もうとしている恋人の決意を嬉しく思ってもいる。 そう、氷河王子は信じていた。 10日が1日でも、1日が1分でも、瞬王子との別れはつらかったが、怪物退治のご褒美は瞬王子の幸福に輝く明るい笑顔。 そう信じ切っていた氷河王子は、だから、気付かなかったのである。 翌日、怪物退治に旅立つ氷河王子を エティオピア王宮の城壁に立って見送った瞬王子の寂しげな様子が、恋人との しばしの別れを つらく思っているからではないことに。 その傍らにいるシルビアンの肩を撫で、瞬王子が悲しげに、 「シルビーちゃん。氷河は、僕だけじゃ足りないんだって」 と呟いたことに。 「くぅん……」 もしかしたら 瞬王子の人間の恋人より敏感かつ正確に 瞬王子の心を感じ取ることのできるシルビアンは、そんな瞬王子の顔を見詰め、瞬王子より心細げに小さな声を洩らした。 |