エティオピアの王城に足を踏み入れるのは初めてではないが、王に正式に許しを得て、その上 侍従に案内されて一輝国王の前に出るのは、氷河王子はこれが初めてだった。
侍従は、『陛下は かんかん』と言っていたが、見たところ 一輝国王の様子はいつもと大して変わらなかった。
なにしろ一輝国王は、氷河王子と対峙している時は いつでも機嫌の悪い男だったのだ。
いつも通りに不機嫌な一輝国王が、いつも通りに不機嫌な声で、氷河王子に目通りを許した訳を知らせてくる。
「瞬が家出した」
「なに」
「シルビアンと散歩に出たのだとばかり思っていたのに、もう20日以上、城に戻ってきていない」

それが事実なら、一輝国王が上機嫌でいないことは至極当然のことである。
しかし氷河王子には、瞬王子がなぜ家出をすることになるのか、そこのところが とんとわからなかった。
瞬王子は、兄である一輝国王を筆頭に エティオピア王宮のすべての者たちに愛されていた。
そして、瞬王子も彼等を愛していた。
その恋を認めてもらえないことで完全に満たされてはいなかったにしても、瞬王子は、自分を愛してくれている者たちに心配をかけるような軽率をするような人間ではない。
慎重で控えめで優しく忍耐強い瞬王子は、よほどのことがない限り、家出などするはずがないのだ。

「家出? それは何かの間違いだ。瞬はきっと一人で俺の帰りを待っているのが つらくなって、俺を迎えに出たんだろう。家出など――」
「部屋に、『捜さないでください』と一言だけ記された書置きがあった。それには 家出の理由は書かれていなかったが、シルビアンが家出の直前 城壁に『氷河のバカ』と爪で書き残していったんだ。おまえが、何かしでかしたんだろう。瞬を傷付けるような無神経なことを言ったとか、浮気をしたとか」
瞬王子の家出の原因は、瞬王子の“家”ではなく、氷河王子にある。
一輝国王は そう決めつけているようだった。
氷河王子は もちろん、自身に向けられた疑惑を即座に否定したのである。
浮気など、論外、心外、もってのほかのことだった。
「瞬を恋人にしている男が、どうすれば瞬以外の人間に目を向けることができるというんだ。だいいち、俺は いつも本気しかない男だ。瞬への本気だけ!」
力強く そう断言してから、
「前者の可能性はあるかもしれないが……」
と 情けない声で言う。

馬鹿王子のくせに自分自身をよく知っている氷河王子に、一輝国王は苛立たしげに ふんと鼻を鳴らし、玉座に腰をおろしたまま、大きく上体を反らした。
「で? 今度は どんな馬鹿をやらかしたんだ。世界一の馬鹿王子殿は」
(世界一かどうかは さておいて)自分が馬鹿だということは認めていたが、氷河王子には 最近 瞬王子の前で“馬鹿をやらかした”記憶はなかった。
怪物退治に出る前に 彼がしたことは、瞬王子のために楽しい計画を立てたことくらい。
それが“馬鹿なこと”だったのだろうか。
氷河王子には 判断がつかなかった。

「俺はただ、瞬と結婚式を挙げたいと言っただけだ。この ひと月、そのための資金調達に出ていた」
「結婚式?」
「瞬は俺のものだと世界中に宣言して、俺とのことを皆に認められ 祝福される瞬を見たいと思ったんだ」
氷河王子の その言葉を聞くと、一輝国王は露骨に呆れた顔になって、高みから氷河王子を見おろしてきた。
そうしてから、氷河王子を軽蔑しきった様子で顎をしゃくる。
「それで貴様の自尊心も保たれるというわけか?」
「俺はそんなつもりは――」
そんなつもりはなかったのだが、そうだったのかもしれない――と、氷河王子は思ったのである。
瞬王子を完璧に幸福にできていない(と思わざるを得ない)状況に、氷河王子が不安と不満を感じていたのは事実だった。
そして、瞬王子は、氷河王子に何事かを望み求めたことはなかったのだ。

「瞬に愛され、瞬を自分のものにしているだけでは足りないというのか。世界中に宣言? 皆に認められる? 祝福される瞬を見たい? 他人の承認や祝福がそんなに欲しいか? 瞬がそんなことを望むはずがない。それはすべて貴様の欲だろう。我儘な上に、贅沢が過ぎる」
「――」
「貴様の“世界一の馬鹿王子”の地位は永遠に安泰だな。シルビアンの方がよほど利口だ。瞬は おそらく、瞬を手にしているだけでは満足しない貴様を悲しんで、おまえと顔を会わせるのが つらくて、おまえの前から姿を消したんだ」
「俺は……」
「俺は? 俺はどうしたんだ? 言いたいことがあるなら、聞いてやらんこともないぞ」

氷河王子には いつも氷河王子なりの価値観と常識と理屈があった。
それを、一輝国王は知っている。
いったい氷河王子は どんな非常識な言い訳を披露してくれるのか、とくと聞いてやろうではないかというような顔つきで、一輝国王は氷河王子を挑発してきた。
そんなふうに意地悪な気持ちになっているらしい一輝国王の前で、氷河王子は唇を噛みしめたのである。
そして、あまり力のない低い声で、
「俺は――瞬がいてくれたら 他に何もいらない」
とだけ言う。
期待していた(?)熱弁が始まらないことに、一輝国王は 虚を衝かれることになったらしい。
彼は、そういう顔をした。
それから 怒らせていた肩から力を抜いて、一輝国王は、
「なぜ、ひと月前にそのことに気付けないんだ、この馬鹿たれが」
と、嘆息まじりに氷河王子を責めてきた。

「貴様の常識は、世間の常識とは海ひとつ分 ずれているんだ。瞬が男子だということも、一国の王子だということも無視して、好きになったからと短絡的に求婚してくるだけでも非常識の極みだというのに、今度は結婚式だと! いいか、以前なら、貴様がどんなに非常識な振舞いに及んでも、おまえ一人が世間の笑いものになれば、それで済んでいた。だが、今は、貴様には瞬がいるんだ。男同士で結婚式など挙げて、笑いものになるのは貴様だけではないんだぞ。世の中はな、何もかもが『好きだから』で許されるようにはできてはおらん」
「……」
「貴様の阿呆のような単純さや直情径行には 心底から いらいらさせられるが、俺はそれらを否定はしない。瞬は、貴様のそんなところが好きなんだろう。だが、迷惑なんだ。貴様の単純さは。貴様は、自分の心だけ見て、その外を見ない。自分の価値観第一で、他人の価値観を考慮しない。たとえ貴様の価値観こそが正しくて、おまえ以外の人間の価値観の方が間違っているのだとしても、それが多数派なら、貴様には それを考慮する必要があるんだ。他人の常識を認められなくても、常識人を装うことができれば まだ何とかなるのに、貴様にはそうすることもできない。普通はな、どれほど好きになっても、人は同性に求婚しない。どれほど愛し合っていても、結婚式など挙げない。そもそも 瞬が そんなことを望んでいるとでも思っているのか。そんな非常識を瞬が喜ぶと思うのか。おまえに悪意がなく好意だけで そんなことを言い出したことがわかっているから、瞬は貴様に『常識で考えろ』の一言が言えなかったんだ」
「……」

たった一人の肉親である兄に その恋を認め許してもらえないことを 瞬王子は悲しんでいるに違いない。
兄と恋人の板挟みになり、つらい思いをしているに違いない。
だから、せめて多くの人の祝福を。
そう考えて、瞬王子のために計画した二人の結婚式だった。
だが、そんなことを一輝国王に訴えたところで、何になるだろう。
それは、言い訳にもならない。
瞬王子は、そんなことを望んではいなかったのだ。
毎晩 間男か こそ泥のように こそこそ忍んでくる氷河王子を、瞬王子は いつも嬉しそうに迎え入れてくれていた。
瞬王子は、『氷河がいてくれれば、それだけでいい』と思ってくれていたのだ。
なのに、氷河王子は、そんな瞬王子の心を踏みにじってしまった。
そして、もちろん、頑なに弟の恋を認めようとしない一輝国王を責めるのもお門違いというものである。
彼は、いわゆる常識通りに振舞っただけなのだから。

氷河王子は、一輝国王に何を言うこともできなかった。
自分の心、自分の価値観を捨てるつもりはない。
改めるつもりもない。
瞬王子を好きな気持ちも変えられない。
だが、それで瞬王子を傷付けてしまったのである。
氷河王子は、自分で自分が許せなかった。

言い訳の一つも口にせず沈黙を守っている氷河王子を、一輝国王が 溜め息で口許を引きつらせながら見下ろしてくる。
「見苦しい言い訳を言うことを潔しとしないところが、おまえの単純馬鹿の唯一の救いだな」
その非常識を反省しても自戒しても、瞬王子を好きな氷河王子の心を変えることはできない。
それは一輝国王にも わかっているのだろう。
瞬王子を恋する男が、『自分の心が間違っている』と思ってはいないことは。
『氷河王子はその心や価値観を変えるべきだ』とまでは、一輝国王も求めるつもりはないようだった。

氷河王子は、たとえ方便にでも『瞬を諦める』などと心にもないことは言えなかった。
代わりに自分が為すべきことを口にする。
「瞬を捜して連れ戻してくる。シルビアンが一緒ならもいやでも目立つだろう。すぐに見付かるはずだ」
「それが見付からんのだ。兵たちに四方を捜させたんだが……。瞬は、金や宝石を持って出た気配はない。剣が一振りだけ持ち出されている」
「――捜してくる」
「……。頼んだぞ。神の命令でもない限り、俺は国を留守にするわけにはいかん。国王というのは、実に不便なものだ」

一輝国王は、本当なら 氷河王子にものを頼むようなことはしたくないはず。
彼は自分の心を曲げ、意地と誇りを放棄して、瞬王子の家出の原因に 最愛の弟の捜索を頼んでいるのだ。
氷河王子は、言ってみれば風来坊の軽率極まりない男。
自分より高い矜持を持ち、責任ある高い地位に就いている一輝国王でさえ、愛する者のためになら、自分を曲げる。
瞬王子を恋する ただの男に それができないはずがない――と、氷河王子は思った。






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