城門前に恋人を残して その場を立ち去る氷河王子を 瞬王子が呼び止めなかったのは、単に気まずかったから――だった。
家出の理由は、自身の傷心。
そんなことで家出をして 兄や城中の皆に心配をかけた自分を、氷河王子はどう思っているのか。
軽蔑しているのではないか、失望したのではないか。
それを確かめるのが、瞬王子は恐かったのだ。

決して、氷河王子に腹を立てていたからではない。
詰まらぬ理由で家出をして多くの者を心配させた自分には、氷河王子に憤る権利も資格もない。
決して、氷河王子の振舞いを悲しんでいたからでもない。
家出などという浅慮な振舞いをして氷河王子の許から逃げ出したことで、自分も氷河王子を傷付け悲しませた。
瞬王子は ただ、自分の軽率が氷河王子を失望させてしまったのではないかと思い、その懸念が事実かどうかを確かめる勇気を持てなかっただけだった。
その時には、まだ。

けれど、瞬王子は そんなことで いつまでも落ち込み ぐずついている人間ではない。
氷河王子と対峙し、謝るべきことは謝り、これからの二人のことを語り合う勇気は、時を経るに従って瞬王子の中で形成されていった。
だというのに――だというのに、氷河王子は、瞬王子をエティオピアの城に届けた その日以降、瞬王子の許に通ってきてくれなくなってしまったのである。
氷河王子と対峙するための勇気を養うのに費やした数日の間は、氷河王子が自分の許を訪れない理由を 氷河王子の思い遣り――氷河王子は 彼の浅はかな恋人に 心を落ち着かせるための時間を与えようとしているのだと思い、瞬王子は その気遣いに感謝していた。
しかし、そのために十分な時間が過ぎても、氷河王子は一向に瞬王子の前に姿を現してくれない。
瞬王子の感謝は、日を追うにつれ、不安に変わっていった。

氷河王子はもう、彼の恋人の許に帰るつもりはないのではないか――。
その懸念が、やがて 瞬王子の頬から血の気を失わせ、瞬王子の生気を奪い始めた。
瞬王子の消沈振りを案じ、氷河王子が故国に一時帰国している可能性を考えた一輝国王が ヒュペルボレイオス国の宮廷の様子を確かめるための使者を立ててくれたのだが、その使者の報告は ノンキ極まりないものだった。
「氷河殿は、ヒュペルボレイオスの城の方には戻っていないようです。あちらの宮廷にも 不眠龍や百頭龍を倒した噂は届いていて、氷河殿の叔父君であるヒュペルボレイオス国王は、相変わらず好き勝手をしているようだと苦笑いをしておられました」
「まあ、殺しても死なないような奴の心配は、するだけ無駄だろうしな」

瞬王子の心を少しでも安んじるために、一輝国王は彼自身も苦笑しながら そう言ったのだが、瞬王子の不安は それで消えることはなかった。
「あの……都に白鳥亭という宿があって、氷河は、エティオピアにいる時は いつも そこに泊まっていると――」
「そこは出払ったようだ」
「あ……」
エティオピア国内の方は、一輝国王は当然 既に探索済み。
氷河王子の足取りを掴む手掛かりが すべて消えたことを知らされ、それでなくても血の気が失せていた瞬王子の頬は 更に蒼白になった。

「氷河、あれから一度も僕のところに来てくれないの……」
城内の者ならだれでも知っている公然の秘密とはいえ、秘密は秘密。
その秘密に関することを最も知られてはいらない人の前にさらけ出し、瞬王子がしょんぼりと肩を落とす。
それだけならまだしも、瞬王子は、兄である一輝国王や彼の侍臣、多くの衛兵やヒュペルボレイオスからの使者がいる謁見の間で、
「僕、氷河がそんなに結婚式を挙げたいのなら、挙げてもいい……」
などと、馬鹿げたことを言い出したのである。

「瞬、正気か」
二度と氷河王子に会えないかもしれないという不安のせいで、瞬王子は普段の冷静な判断力を すっかり失ってしまっているようだった。
「氷河に会いたい……」
力なく呟く瞬王子に これ以上 馬鹿なことを言わせないために、一輝国王は瞬王子を自室に連れていくよう、侍従に命じたのである。
瞬王子は、生気や覇気をどこかに置き忘れてきてしまったような様子で、一輝国王の侍従に促されるまま、謁見の間を出ていった。

エティオピア王宮の花、生気に輝く可憐な花と、人に謳われ、実兄であるエティオピア国王もそう・・と信じていた瞬王子の打ちひしがれた姿は、その場に居合わせた者たちを 一様に驚かせることになった。
やがて、謁見の間の最も下座に控えていた衛兵の一人が、恐る恐る一輝国王に言上してくる。
「氷河殿は、城の庭に忍び込んできてはいるようなのです。衛兵や下働きの者たちの中に、氷河殿を見掛けた者がいます。瞬様のお部屋の方を一晩中 見詰めていたとか」
「……ったく」

元から馬鹿だった氷河王子はともかく、瞬王子まで。
恋をすると、人は誰でも 自分の中に愚かさや臆病を養うようになってしまうのだろうか。
だとしても――だとしたら なおさら、瞬王子を このまま放っておくことはできない。
一輝国王は長嘆息を洩らして、瞬王子に『シルビーちゃん、おいで』を言ってもらえなかったせいで その場にぽつねんと――“ぽつねん”と言うには あまりに場所を取りすぎていたが――取り残されていたシルビアンに、
「シルビアン。瞬のために一肌脱いでくれるか」
と声をかけた。



エティオピア王国に、
『我がアテナ神殿に、ギリシャのすべての国や都市の王や支配者たちを集め、その者たちの前で瞬王子をネメアの大獅子に永遠の伴侶として与えよ。さすれば、瞬王子には生涯の幸福が約束されるであろう」
という、女神アテナの神託が下ったのは それから3日後。
前代未聞の神託が瞬王子に下ったという噂――事実――は、その日のうちに すべてのエティオピア国民の知るところとなった。
同時に、エティオピアのアテナ神殿での儀式に参列するようにとのアテナの指示を受けたギリシャのすべての国と都市においても。
すなわち、『瞬王子をシルビアンに与えよ』というアテナの神託は、神託が下った その日のうちに、ギリシャに住むすべての人間の知るところとなったのである。






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