「世話しろってさー」 星矢が、瞬を連れて元の席に戻ってくる。 学園長の裁定には大いに不満を覚えていたのだろうが、氷河たちの許に戻ってきた星矢の表情は、ぼやきめいた その言葉とは裏腹に、実に明るく屈託のないものだった。 世話を任された新入りの見た目が 稀に見る美少女であることは論を待たない事実だったし、恨みがましさのない その泣きっぷりからして、瞬が素直な性格の持ち主であることにも疑いを挟む余地はなく、星矢は学園長に押しつけられた仕事を むしろ喜んでいたのだ。 「あの学園長、元聖闘士らしいんだけど、横暴もいいとこだろ。教育者面してるけど、胡散臭いっていうか、柄が悪いっていうか――とにかく、あの男は不親切なんだよ。学園長が最初に男だって言ってくれてれば、俺だって、氷河の口車に乗せられたりなんかしなかったんだ。ああ、この金髪が元凶の氷河な。で、そっちの長髪が――」 「紫龍だ。敬称不要。入園早々、災難だったな」 名を紹介されても愛想笑いの一つも作らない氷河の分も、紫龍が瞬に同情の念を示す。 「僕、瞬です。男です。よろしくお願いします」 さすがに もう涙は乾いていた瞬が、紫龍と氷河に向かって ぴょこんと頭を下げてくる。 紫龍は、瞬のその自己紹介に苦笑した。 「ああ、よろしく。しかし、星矢。転入生を紹介する際、教師は普通、その性別までは言わないものだろう」 「その転入生が普通の転入生ならな。でも、こいつは普通じゃないじゃん。なあ、瞬」 何事かを考えて発言することをしない星矢には 悪気は全くない――常にない。 瞬にも それはわかったらしく、星矢に『普通じゃない』と断じられた瞬は、今度は泣かなかった。 無論、その立場上(?)、積極的に星矢の意見に同意することもしなかったが。 そして、同じく その立場上――主に直観と本能で言葉を紡ぎ出す星矢と 声を発することさえ面倒がる氷河の友人という立場上――不親切な学園長に代わって、この学園の仕組みを新入りに説明するのは紫龍の役目。 とはいえ、この学園が 女神アテナの統べる聖域の出先機関のようなものであること、その存在の目的がアテナの聖闘士養成であること、原則として7、8歳から18歳までの聖闘士志望者が在籍していること――程度の説明は、瞬も学園長から受けていたようだったが。 「今、この学園には、ペガサス、キグナス、ドラゴン、アンドロメダの青銅聖闘士の聖衣がある。アンドロメダは女子用のようだから、俺たちは 残りの3つの聖衣を争い合うライバルでもあるということだな。地上に存在する聖衣は88。当然 ここにいる180人の生徒のほとんどは聖衣を手に入れることはできない。アテナがこの学園を創設したのは、決して聖闘士の養成だけが目的ではないということなんだろうな」 紫龍の説明に、特に落胆した様子も失望した様子も見せずに、瞬が深く頷く。 瞬の聖闘士志望動機から察するに、聖闘士になれないかもしれない多くの子供の命と生活を担っている この学園の存在は、瞬には是として受け入れられるもののようだった。 「しかし、おまえ真面目だよなー。さっきのあれ、本気か? 聖闘士志望の動機が、不幸な子供をなくしたいから――とかっての」 「もちろんです」 真面目な新入りが、大真面目な顔で答えてくる。 瞬の真面目さに、星矢は大仰な溜め息で答えた。 「俺は、ここに入ったの9つの時だったんだけどさ。正直、寮費タダ、食費タダ、制服支給っていうから、ここに入学しただけだぜ。親もないし、他に行くとこもなかったし」 「え」 期待のハードルを上げすぎて、理想に燃えている新入りが この学園の実態に失望することがないように。 星矢のその言葉は、そう 理想に燃えている新入りが、星矢の その言葉に驚いたように瞳を見開く。 この学園の生徒は、女神アテナの掲げる愛と平和の実現という目的に共鳴し、高い志を抱いた生徒ばかりなのだと、瞬は信じていたらしい。 「過度の期待は禁物。あの学園長の胡散臭さからして、ここが清廉潔白で高潔な学びの杜でないことはわかるだろ」 「確かに狭き門ではあるんだろうけど、生徒たち全員に聖闘士になりたい気持ちはあるのだと……」 「聖闘士になりたい気持ちがないわけじゃないんだけど――ここにいるのは、みんな 俺と似たり寄ったりの考えの奴等ばっかりだぞ。ここには、親のいる奴なんていないから」 「知ってます。この学園は、親を失って行き場のない子供たちを保護する施設も兼ねている。僕にも両親はいません。ただ、生き別れの兄がいて――兄がここにいたんじゃないかという噂を、僕、ここに来る前にいた施設で聞いて――それで ここのことを知ったんです。年齢からして、ここはもう出たのだと思うけど……」 「兄貴がここにいた? 卒業したのか? 聖闘士になって?」 「わからないの。聖闘士にならなければ教えられないって、学園長が」 「そっかー……。あの学園長、ケチだからなー。気ぃ落とすなよ。聖闘士になれば教えてもらえるっていうのなら、聖闘士になればいいだけのことじゃん」 いともたやすく、気軽を極めた口調で星矢が言う。 たった今、学園に在籍する生徒のほとんどは聖闘士になれないという話を聞いたばかりだった瞬は、安易に同意もできなかったらしく、少し困ったような顔になった。 学園長は『体力、運動能力はともかく、その他のことでは星矢を見習うな』と瞬に忠告したが、彼のその忠告は 実に公正公平な視点に立ったものだったろう。 生活態度や 高い志の有無はさておき、体力・運動能力に関しては、星矢はこの学校の優等生、最も聖衣の近くにいる生徒だったのだ。 だから、星矢には そんなことも気軽に言えてしまえるのである。 新入りにも、それは わかったらしい。 瞬は、星矢の気軽さを羨むように、そして少しばかり勿体なさそうな顔になって、聖衣に最も近い場所にいる先輩を見やった。 「星矢は、衣食住の確保のためだけに この学園に入ったの?」 「大事なことだろ。衣食住が確保されてて、死なずに済むってことは」 「それはそうだけど……」 「まあ、聖闘士になれば衣食住の保障が続くから、聖闘士になるつもりではいるけどな。でも、それは二の次三の次の目的で、俺はとにかく、少しでも早く 自由に行動できる大人になって 姉さんを探すんだ」 「お姉さん?」 「おまえとおんなじ。俺にも、生き別れの姉さんがいるんだよ」 「そうなの……」 親はなく、兄姉とは生き別れ。 自分と全く同じ境遇の星矢に感じるものがあったらしく、星矢を見詰める瞬の眼差しは 優しさと同情の入り混じったものに変化した。 愛し守ってくれる親のない子供にとって、衣食住の確保と“一人で立っていられる大人になること”は重要なことである。 何といっても、夢や理想は食べられない。 夢や理想だけで、人は生きていくことはできないのだ。 「俺も生き延びることが第一の目的だな。俺がここに来たのは、俺を拾って育ててくれた人に、ある日突然『パライストラに行って、生きる目的を見付けてこい』と言われたからなんだ。俺は10歳で ここに来て、もう7年ここにいるが、それが何なのか、未だにわからん」 「紫龍の入園の動機なんて、全然まともな方だぜ。氷河の聖闘士志願の動機なんか、『マーマに会いたい』だもんな」 「マーマに会いたい?」 『マーマ』なる単語が、あまりにこの場にそぐわないものだったのからか、あるいは 星矢が視線で示した先にいた男が およそ肉親の情など持ち合わせていないような冷めた目をした男だったせいなのか――氷河の聖闘士志願の動機を知らされた瞬は、一瞬 きょとんとした顔になった。 氷河が、『余計なことは言うな』と言わんばかりの目で、星矢を睨みつける。 もちろん星矢は、そんなものには 怯みも たじろぎもしなかった。 何も考えずに、言いたいことを言い続ける。 「氷河のお袋さんは、まだガキだった氷河の命を救うために、船の事故で死んだんだけどさ。その船が未だに引き上げられずに東シベリアの海の底に沈んでるんだ。普通に潜ったら低温と水圧で即お陀仏ってとこ。氷河は、聖闘士になって、そのマーマに会いに行くんだよな?」 誰にも知られたくないこと――少なくとも 軽い口調で語られてしまいたくないこと――を、正しく軽い口調で語られてしまった氷河が、それでなくても無感動で冷やかだった瞳に、不機嫌の色を追加する。 にもかかわらず、彼が星矢に一言も言い返さなかったのは、それが紛れもない事実だったからだった。 事実を口にしただけの星矢を怒ることも殴ることもできず、ますます ふてくさった態度を示すことになった氷河に、瞬が、 「そんなに大切な人になら、たとえ死んでたって会いたいよね……。大抵の人は諦めてしまうけど――」 と、呟くように告げる。 自分自身は“大抵の人”ではないが、自分の望みがそういうものだという認識を持ってはいた氷河は、笑うことも呆れることもせず――むしろ、氷河当人が呆れるほど真面目な顔をしている瞬に 面食らってしまったのである。 あまりの真面目振りに、氷河の方が、笑って その場をごまかしたくなってしまった。 が、真面目な瞬は、あくまでも どこまでも真面目である。 「紫龍さん――紫龍の目的は一生ものの目的だから置いておくにしても、星矢と紫龍は、そのあとはどうするの?」 「そのあと?」 「うん。お姉さんを見付けて、マーマに会った、そのあと」 「……」 何も考えない星矢は もちろん、そのあとのことなど何も考えていなかった。 そして、何も考えていないわけではないが 常に一つの事柄しか考えない氷河も、実は“そのあと”のことなど全く考えていなかった。 二人が二人揃って返答に詰まる。 「僕も兄さんを探すつもりだよ。でも、生きている目的がそれだけだったら、その目的が果たされたあとに することがなくなってしまうでしょ。目的が果たされるまでだって、生きている時間のほとんどを無目的に過ごすことになる。その目的のためだけに1日24時間すべてを費やすなんて無理なことなんだもの」 「そ……そりゃ まあ、一応、愛だの平和だののために戦ってもいいけどさ。でも、聖闘士としての義務を果たすのに時間をとられて、姉さんを探す時間が削られたり 自由でいられなかったりしたら、それは俺的には本末転倒なんだよ。もし そんなことになったら、俺はアテナに聖衣を返上すると思う」 星矢は、実は、自分は聖闘士になれると完全に信じていた。 その力が自分にはあると信じていた。 それゆえ そんな発言をすることになったのだが、その言葉を聞いた瞬は、ますますもって勿体なさそうな顔になった。 「そんな……せっかく、アテナの聖闘士になったのに? いろんなことができるよ。たくさんの人のために」 「俺、そんな崇高な理想とか志とかは持ち合わせてないんだよ」 「でも……」 「高い理想も大事なんだろうけどさ、それで自分の足元を見れないのも問題だぞ。アテナの聖闘士になるためには、結構な競争率の中で勝ち残らなきゃならない。ここにいる奴等はみんな、少なくとも学園の外にいる奴等よりは はるかに運動能力に優れてるし、女だってみんな、俺たちよりガタイがいい。おまえはまず、クラスの平均に追いつくところから始めなきゃならなそうだし、これからは泣いてる暇なんかないぞ」 高い理想も志も抱いてはいないが、最も聖衣に近い場所にいる星矢が、瞬に忠告する。 「う……うん。僕、頑張るよ。ありがとう、星矢」 瞬は そんな星矢に、素直に 真面目な顔をして頷いた。 高い理想と志を抱いていても足元が覚束ない新入り。 しかし、その姿が稀に見る美少女そのもので、しかも、その性格は、ひねたところも曲がったところもなく 極めて素直。 だからというわけでもなかったが――それとも、“だから”なのだろうか――星矢と紫龍は瞬に好意を抱いた。 面倒くさがりの氷河は その表情を変えなかったので、彼が瞬をどう思ったのかは、氷河と長い付き合いの星矢たちにも よくわからなかったが。 |