『氷河を守って』という母の遺言の意味を 二人が知ったのは、侯爵夫人の死から2年が経った頃――瞬が10歳――学習院初等学科4年、氷河が12歳――高等初等学科2年になった時だった。
学年が違うので 終業の時刻にも ずれがあったのだが、二人は、まだ東京市内でも滅多に見掛けることのないガソリンエンジン車で登校も下校も共にしていた。
その日は、日本生まれ日本育ちの氷河が実母の故国の国語を学ぶために雇ったロシア語の家庭教師が来る日で、二人は寄り道もせず まっすぐに公爵邸に戻ったのである。
いつも二人が降車する車寄せに もう一台の自動車があって、氷河と瞬は、こんな時刻に珍しく 城戸侯爵が自邸にいることを知った。
父が息子たちの帰宅の挨拶など欲していないことは わかっていたので、特段 侯爵の在宅を気にもせず、二人は そのまま学習室に向かおうとしたのである。
そんな二人の足を止めたのは、他ならぬ城戸侯爵――彼等の父の声だった。

といっても、彼等は公爵に呼び止められたわけではない。
侯爵には、息子たちの帰宅に気付いている様子はなかった。
この屋敷の主は 書斎から直接出られる中庭にいるらしい。
外気を室内に取り込もうとしたのか、その書斎のドアが開いていた。
庭に出ている侯爵が 書斎にいる執事と話している声が 勝手に氷河と瞬の耳に飛び込んできたのだ。
その会話の内容が内容だったため、二人は 書斎のドアの前で立ち止まらないわけにはいかなくなったのである。

「喧嘩をして、学友に怪我を負わせた?」
侯爵家の私事全般を管理監督している執事の報告を そのまま反復したのだろう侯爵の声には ほとんど抑揚がなく、それは執事の報告内容に驚いた者の声ではなかった。
ただ、侯爵の声は低くはあっても よく通る声なので、離れた場所にいる氷河と瞬にも、その声は はっきり聞き取ることができたのである。
「正確には、元学友のようです。家庭の都合で やむを得ず 自主退学した生徒なのですが、授業を盗み聞こうとして構内に忍び込んでいたようで。S元男爵家の ご令孫です」
「S元男爵家? ああ、あの……。氷河は身体が大きいから、加減をしたつもりでも加減にならないのだろう。では、あの無能男爵の息子――いや、孫か。治療費でも要求してきたか」
「それが……元男爵のご令孫と喧嘩をなさったのは瞬様の方で」
「なにっ !? 」

抑揚のなかった侯爵の声に、初めて感情らしきものが混じる。
「瞬? あの瞬が喧嘩をしたというのか !? 」
元学友と喧嘩をし 怪我を負わせたのは氷河の方と思い込んでいた時には平然としていた城戸侯爵も、それには さすがに驚かずにはいられなかったらしい。
顔も知らぬ公爵の許に 親に言われるまま嫁いできた母のように 大人しく従順な子――というのが、瞬に対する城戸侯爵の認識だったに違いない。
驚いたのは侯爵だけではなかった。
瞬の兄である氷河も、驚きに その瞳を見開き、自分の隣りに立つ瞬を見下ろしたのである。

花のような姿――瞬に出会う ほぼすべての人間が――それこそ、鹿鳴館の花と呼ばれている貴婦人も、その冷厳さで名を馳せている元老も――瞬の姿を そう評した。
瞬は、だが、決して 心までが 花のように か弱いわけではない。
母亡きあと、兄以外の誰にも一粒の涙も見せず、8歳の子供とは思えないほど気丈に振舞ってきた瞬を、氷河は知っていた。
そして、瞬は、どんな些細なことでも兄に話し、どんな些細なことでも兄のことを知りたがる弟だった。
庭の薔薇の花の花びらを一枚、そんなつもりはなかったのに摘み取ってしまったと、そんなことさえ報告してくる瞬と自分の間に隠し事などないと、氷河は信じていたのである。
だというのに、そんな大事件があったことを、氷河は聞いていなかった。

当然、それは何かの間違いだと、氷河は思ったのである。
しかし、瞬が兄の腕にしがみつき 何も言わずにいるので、氷河は それが間違いや誤解の類ではなく、実際にあったことなのだと考えないわけにはいかなくなった。
「どうして喧嘩なんか。理由は何だ?」
「……」
瞬は、顔を伏せて答えなかった。
ただ、兄の腕にしがみついている腕と指先に込めていた力を増しただけで。
それは、“素直で大人しい城戸侯爵家の愛らしい ご子息”の、兄に対する初めての黙秘権行使だったかもしれない。
氷河は、質問を変えた。

「勝ったのか」
「当たりまえだよ! あんな卑劣漢に僕が負けるはずない……!」
「喧嘩の理由は?」
叱るつもりも 責めるつもりもない。
言葉にはせず、微笑と穏やかな声音で、そう知らせる。
瞬は困ったように、眉根を寄せた。
「お……女の子みたいだと言われたの」
「嘘をつけ。そんなこと、おまえは言われ慣れているだろう」
「い……言われ慣れてるけど、機嫌が悪い時だったから、我慢できなかったの」
「おまえでも、機嫌が悪い時があるのか」
「あります」
「……俺のことで、何か言われたのか」
「何も!」

瞬がこれほど頑なに意地を張る理由はそれ以外にあり得ない。
そう考えて、氷河は かまをかけてみたのだが、彼の推察は図星を指していたらしい。
抑えた声で、だが断固とした口調で、そうではないと言い切り、一層 頑なになってしまった瞬を見て、氷河は そう確信した。
だが、瞬とS元男爵家の ご令孫とやらの間で どんなやりとりがあり、それがどういう経緯で喧嘩に発展したのかまではわからない。
言わないと決めたら、瞬は死ぬまで口をつぐみ続けるだろう。
氷河は溜め息をついて、瞬の肩を抱き寄せた。
瞬が卑劣、傲慢、邪なことをするはずがない。
瞬に非がないことは わかっているのだから、氷河は あえて喧嘩の理由を追及しようとは思わなかった。
だが、瞬の父もそう考えるとは限らない。
瞬が その場から立ち去りたがっていることは感じ取れていたのだが、氷河は そこを動かなかった。

「その子供が 裏口に父親と参っております」
「なぜ向こうから。しかも 裏口とは。怪我をさせたのは瞬の方なのだろう。こちらから謝罪に出向くのが筋というものだ」
「それは、現在の ご身分を自覚して――用件が用件ですし、堂々と正門からは訪ねにくいのでしょう」
「S元男爵家か」
「はい。半年前に困窮を理由に爵位を返上。元男爵家の家屋敷は借入金の担保となっており、銀行経由で当家のものになっております」
「己れの無才を棚に上げ、それで逆恨みされては敵わんな。治療費を求めてのことなら、要求額の倍、渡しておけ。子供の喧嘩に親がしゃしゃり出ていけるか」

こういう時には、侯爵の家庭への無関心が有難い。
そう思って、安堵の息を洩らした直後だっただけに、
「いや。やはり、西の客間に通せ。瞬が喧嘩とは。経緯に興味がある」
という侯爵の言葉が、氷河の神経を逆撫でしたのである。
『興味がある』
仮にも父親なら、ここで彼が口にすべき言葉は『興味』ではなく『心配』であるべきではないのかと。
事実は どうであれ、瞬のいるところでだけでも、我が子を案じる父親の振りができないのか――。
そんな父の態度に 今更 瞬が傷付くことはないだろうことを知っているだけに、氷河は侯爵が口にした単語に憤らずにはいられなかった。

書斎を出た廊下に、彼の二人の息子たちが立っていることに気付いた侯爵が、驚いた様子も見せずに、瞬に命じる。
「瞬。聞いていたか。では、おまえも来い。おまえも城戸家の一員なら、自分のしたことには 自分で始末をつけろ」
おそらく兄のことが原因で 瞬は元学友と喧嘩をした。
そのせいで怪我を負った子供が、父親同伴で加害者の家に押しかけてきている。

怪我を負った子供の家は、城戸侯爵家と なにやら因縁があるらしい――。
侯爵がどう対応するのかはわからないが、瞬が責められる事態だけは回避しなければならない。
氷河は、彼自身は公爵に命じられたわけではなかったが、当然のごとくに瞬に同道し、侯爵も そんな氷河に何も言わなかった。






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