皇族・華族のための教育機関である学習院に在籍し、瞬の学友でもあったという問題の子供は、怪我といえるほどの怪我をしているようではなかった。
一見したところでは、頬に 血もにじんでいないような擦り傷がある程度である。
衣服で覆われた部分に打撲や裂傷があるのかと氷河は案じたのだが、どうやら そうでもないらしい。
子供の父親は、可愛い我が子が頬に負わされた大怪我の治療費を城戸侯爵に求めてきたが、当の怪我人は、そんな父に嫌気がさしているように唇を噛みしめて、その視線を床に敷かれた絨毯の上に落としていた。
懸命に強気に出ようとして、かえって卑屈な目になっている被害者の父親の言い分を聞き流し、城戸侯爵が、元男爵の孫の方に目を向ける。

「確かに大怪我だ」
侯爵は、声にも表情にも、皮肉の響き一つ、蔑みの色一つ 表さなかったのだが、侯爵の その態度は、来訪者たちを自分と同じ人間と見なしていないゆえのものと、怪我人は敏感に感じ取ったらしい。
床に落としていた視線を上げ、怪我人は 城戸侯爵を正面から睨みつけてきた。
「治療費なんかいらない! なまっちろい華族様のガキなんかが、俺に怪我をさせられるわけがないんだ!」
息子の恐れ知らずの態度に父親が驚き、今度は親の方が 怯懦な様子で視線を床に落とす。
侯爵は、挑戦的な目をした子供に尋ねた。

「勝ったのは君の方だと言うのか」
「ま……負けたわけじゃない」
「喧嘩の原因は」
侯爵に詰問されているのが他ならぬ自分自身であるかのように、氷河の手の中にある瞬の肩が強張る。
城戸侯爵と S元男爵の孫の間に入っていこうとする瞬を、氷河は その手で引きとめた。

「言っておくが、君の御祖父が家屋敷を手放すことになったのは、彼の世間知らず、彼の無策のせいだ。無能な殿様の蔵にも税が入ってくる封建時代は終わった。財は増やすための策を講じなければ減るものだということも知らず、土地を切り売りし、借金を重ね、父祖代々が築いてきた財産を食いつぶしたのは 君の祖父と父。爵位返上も 元男爵が自分で決めたことだ」
「わかってるよ! 喧嘩だって、俺の方が悪いんだ!」
「ほう。では、君は、治療費の無心ではなく、謝罪のために来たというのか? 喧嘩の原因は何だったんだ」
「だ……駄目……」
声にもなっていないような か細い声を、瞬が その唇から漏らす。
その声を聞いた途端、S元男爵の孫は勝ち誇ったような声で、瞬を怒鳴りつけていきた。
「おまえの兄貴は、前の侯爵の子なら 親無し子で、今の侯爵の子なら不義の子で、でも父親が日本人なら あんな髪や目の色をしているはずがないから、本当はどこかの異人の男との不倫の子だって言ってやったんだ!」

元男爵の孫が その言葉を最後まで言い終える前に、瞬は氷河の手を振り払い、元学友に飛びかかっていた。
自分が相手より体格が劣っていることを承知している瞬が、その顔や腹に攻撃する無謀はせず、まず相手の足に取りつく。
態勢を崩して ソファに倒れ込んだ元学友の頬を、瞬は平手で ぱしんと音を立てて打ちつけた。
戦法としては妥当かつ的確だが、いかんせん、力が足りない。
元男爵の孫の頬の擦り傷は、瞬との喧嘩の最中に負った怪我ではないと、氷河は確信することになったのである。
彼は、どこか何かに 自分で頬を擦ったに違いないと。
だが、全く躊躇がなく迅速な瞬の攻撃。
あくまでも護身のために、柔術の基本は 瞬も身につけさせられているが、これは完全に喧嘩の作法である。

氷河と侯爵は、瞬の応用力に(?)唖然とすることになった。
氷河が すぐ気を取り直し、次の攻撃に移ろうとしている瞬を 元男爵の孫から引き剥がす。
瞬は唇を引き結んで、元学友を睨みつけていたが、兄が一向に弟を自由にしてくれないので、その睥睨は氷河に向かうことになった。
そんな瞬に、氷河が微笑で応じる。
「だから? 馬鹿だな」
瞬の元学友の暴言に動じた様子もなく 弟の髪を撫でてくる兄の微笑を見て、瞬は悟ったらしい。
そういった下卑た誹謗憶測を投げつけられることは、兄には これが初めてのことではないのだと。
それはそうだろう。
元男爵の孫が口にした憶測は、子供が考えつくような事柄ではない。
どこかの大人の受け売りに決まっているのだ。

二人の間に秘密や隠し事はないと信じていたのに――秘密も隠し事も、二人の間には もちろんあったのだ。
自身の苦痛や傷心で、大切な人を悲しませないために。
瞬が 喧嘩の理由を兄に知らせまいとしたように。
「だ……だって、でも……」
瞬の瞳に涙が盛り上がってくる。
次の瞬間、瞬は兄の胸の中に飛び込み、声をあげて泣き出していた。
「ひどい……ひどい、ひどい、ひどい! 氷河兄様のこと、あんなふうに言うなんて! 僕、許さない。誰だって、許さないんだから!」

無責任な流言を飛ばされている当人よりも傷付いて 肩を震わせ泣いている瞬が 可愛くて、哀れで、氷河は その両腕で瞬の身体を抱きしめた。
そんなことで、氷河は瞬に泣いてほしくなかった。
「でも、暴力は駄目だろう。瞬が人に怪我をさせたなんてことを知ったら、母様が嘆かれる」
だから こんなことはしないでくれと、こんなことで二度と泣いてくれるなと、氷河は低い声で瞬に訴えたのだが、瞬は兄の言葉をきかなかった。
氷河の胸の中で幾度も首を横に振り、これからも 兄を守るために自分は戦い続けるのだと、瞬は訴え続けた。

「僕は、氷河兄様を守るって、母様に約束したの。何があっても、氷河兄様を守るって……!」
氷河は、そんな瞬の髪を撫でながら、泣きじゃくる瞬を、静かな声で重ねて諭した。
「何を言われても、俺は平気だ。おまえが俺のために傷付くことの方が、俺はつらい」
「僕は、氷河兄様を命をかけて守るの!」
「俺は、母様に、瞬に優しくすると約束した。あまり腕白になられると、俺は瞬に どう優しくしてやればいいのか わからなくなる」
「え……」
氷河の その言葉を聞いた瞬が、瞳を涙でいっぱいにしたまま、おずおずと顔を上げる。
兄に、母との約束を反故にさせるわけにはいかない。
そんなことになったら、自分はどうすればいいのか――。
気弱げに、途方に暮れた幼い子供のように兄の瞳を見上げ 見詰めていた瞬は、やがて その瞼を静かに伏せた。

「ぼ……僕、いい子にしてます……」
「そうしてくれると助かる。瞬の この手は人を傷付けるためではなく、俺が道を誤りそうになった時、俺を正しい場所に引き戻すため、俺を守るためにあるんだ」
人を傷付けるためではなく、兄を守るため。
氷河の言葉は、瞬の望むところであり、瞬には嬉しい言葉でもあった。
「ぶったことは謝ります。ごめんなさい」
瞬が元学友に謝罪したのも、自分の為したことを心から反省してのことではなく、兄に母との約束を破らせないため、これまで通り 兄に優しくしてもらうための方便だったかもしれない。

素直なのか、頑固なのか。
あるいは、自分の欲しいもの、守りたいものに対して正直で貪欲なだけなのか。
可愛らしいのか、狡いのか。
大人なのか、子供なのか。
瞬が、その花のような姿の内側に秘め隠しているものの正体を 過たずに見透かすことのできた者は、おそらく その場には一人もいなかった。
瞬の兄にも父にも――それは彼等が初めて目の当たりにした瞬の激しさだったのだ。
まして、赤の他人には、瞬の実像も 城戸侯爵家の実情も、理解の域を超えたものだったろう。

父親の存在など視界の内にも意識の内にも入っていないような二人の息子のやりとりを無言で見やっていた城戸侯爵が、執事に顎をしゃくって合図を送る。
執事が手にしている封筒の中身が何であるかを察したのだろう 瞬の元学友は、城戸侯爵に向かって再度 吠え立てた。
「怪我なんかしていない! 負けてもいない! 治療費なんかいらない!」
城戸侯爵には、自身の息子より 赤の他人の子供の方が はるかにわかりやすかったかもしれない。
彼は、怪我人当人ではなく、怪我人の父親の手に金の入った封筒を手渡させた。
「子供の方が、父や祖父より 誇りと気概を備えているようだ。私は、その意思を尊重する。だが、私は瞬の激昂や涙を 今日初めて見た。私に面白いものを見せてくれた君の仕事に対して、私は労賃を支払おう」
「面白いものって……」

息子の涙を“面白いもの”と評する父親に、瞬の元学友は 少なからず驚いたようだった。
そうして、卑屈で不様な父親を持つ元男爵の孫は、そんな自分自身に対する同情とは色合いの違った同情を、瞬に対して抱いたらしい。
我が子を突き放しているような父親。
弟を甘やかし溺愛しているように見える、実兄なのか義兄なのか わからない兄。
肉親の愛に恵まれているのか いないのか判断し難い、同い年の元学友。
彼は、城戸侯爵家の奇妙な家族に 不審なものを見るような視線を投げた。
次に、城戸家の執事から手渡された封筒に しがみついているような父親に、浅ましいものを見る目を向けた。
そして、そんな父親と共に、彼は城戸侯爵家を辞していったのだった。


その出来事以来、氷河と瞬の間の傾慕の念は いよいよ強く深いものになっていったのである。
二人が父を同じくする実の兄弟なのか、そうではないのか。
そんなことは、二人にはどうでもいいことだった。
二人は母との約束によって結びつけられた二人で、その絆は、それ以上の何物も それ以外の何物も必要としないものだったから。
それから8年。
二人は二人のまま――何も変わらぬまま、時が流れていった。






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