二人は何も変わらなかった。 しかし、変わらないのは二人の絆だけと言っていいほど、二人の周辺は激変した。 城戸侯爵の事業は、日清戦争後の国の方針や時流に乗って 中国大陸、欧州、米国へと拠点を増やし、城戸侯爵家の財と力は膨張する一方。 日本は、“栄光ある孤立”を放棄した英国と日英同盟を締結。 南下政策を強硬に推し進める氷河の母の故国と日本国の対立は 一層鮮明になっていった。 そういった世情の変化が、二人の日々に全く影響を及ぼさなかったわけではないのだが、それでも二人の間の情愛だけは 決して揺らぐことはなかったのである。 「兄様!」 学習院入学時から登下校は二人一緒――という習慣も、二人は変えなかった。 学習院の高等科を卒業した二人は東京帝国大学の法科に進んだだめ、下校の際の待ち合わせ場所は 学習院構内の図書館から、学生を当て込んで作られたのだろう本郷のカフェへと変わったが、変わったのはそれくらいのもの。 氷河は 氷河の同期の紫龍という学生と、瞬は 瞬の同期の星矢という学生と行動を共にすることが多くなっていたが、それも学内と その近辺でだけのこと。 カフェのテーブル席に兄の姿を見付けると、瞬は、学校というものに通い出した子供の頃と何も変わっていない調子で、兄の許に駆け寄っていった。 テーブルには、氷河と紫龍がいた。 いつもはロシア語や英語の法律書を日本のそれと比べて盛んに議論しているのが常の二人が、今日はやけに静かである。 いったい今日の先輩二人の議論の題材は何なのかと瞬は訝ったのだが、彼等の議論が白熱していないのも当然のこと。 氷河と紫龍が着席しているテーブルの上に置かれていたのは法律書ではなく、文字の極めて少ない画集だった。 開かれているページに載っているのは、万能の天才レオナルドの描いた“聖アンナと聖母子”。 聖母マリアと幼な子イエス。その二人を見守るマリアの母、聖アンナ。 瞬には見慣れた作品だったが、法科の学生に白熱した議論を求めるには、それは少々 難のある題材だったのだろう。 「兄様は、ほんとに この絵が好きだね」 瞬と一緒にカフェにやってきた星矢が、瞬のその言葉を聞いて意外そうな顔を作る。 帝大に入学してできた瞬の親友の家は某中央財閥系の分家で、華族ではなかった。 だからというわけでもないだろうが、彼は非常に言葉使いがざっくばらんだった。 遠慮がなく、率直を極めている。 「氷河、おまえ、こんなのが好きなのか? おまえは、もっと すらっと細身の年下の清純派が好きなんだと思ってた」 星矢の その推察の根拠が奈辺にあるのかに気付いていないのは、その場では瞬だけだったろう。 親友の発言に、 「その言い方は変だよ。マリア様は、世界でいちばんの清純派でしょう」 という、頓珍漢な異論を唱えてきたところをみると。 わかっていない瞬に、紫龍と星矢が苦笑する。 「好きというわけじゃない。この絵の聖アンナが マリアの母とは思えないほど若く、しかも二人が融け合ってるかのように見えるのは、レオナルドが生みの母と育ての母、愛する二人の母を描いたからだと言われている。俺のようだと思ってな。いつまでも若い――若いままの二人の母親」 「兄様……」 母が二人いることを、兄が決して不幸なことだと思っていないことは知っている。 だが、そのせいで、兄が周囲の人間に その出生をあれこれ勘繰られていることも、瞬は知っていた――より正確に言えば、兄の父と目されている人間が二人 もしくは それ以上いることを。 そんなことはどうでもいいこと――城戸侯爵家の二人の男子が 実の兄弟であろうが 赤の他人であろうが、そんなことは どうでもいいことだと思っている瞬には、氷河が彼の両親について考えることを、好ましく感じることができなかった、 城戸侯爵家の“氷河”は、“瞬”の兄でいてくれさえすれば、それでいいのだ。 「じゃあ、幼な子イエスが氷河で、イエスが抱き上げようとしている小羊が僕?」 瞬が氷河に そう尋ねていったのは、兄に 親のことではない何かを考えていてほしかったから。 その問い掛けに対する氷河の返答は、瞬にとっては――おそらく、紫龍や星矢にとっても――意外なものだった。 「それは逆だろう。幼な子イエスは瞬で、瞬が抱き上げようとしている小羊が俺だ」 と、氷河は答えてきたのだ。 「子羊は、やがてイエスが人類救済のために自らが払う犠牲の象徴だと言われているぞ」 「犠牲の象徴?」 紫龍の不吉な注釈に、瞬は一瞬 眉を曇らせた。 すぐに気を取り直し、画集のイエスの上に置かれた兄の手に、瞬が自らの手を重ねる。 「だとしても、安心してて。氷河兄様のことは、僕が命に代えても守るから」 「瞬……」 年を経るごとに――幼い頃より更に 花のような印象を増すという、不思議な成長の仕方をしている瞬が、その一事に関してだけは いかなる変化も成長もなく、頑なに母との約束に固執し続ける。 氷河にとって、それは、嬉しいことであると同時に 困ったことでもあった。 二人の年齢・体格・印象から、大抵の人間は、城戸侯爵家の二人を、“可憐な弟を守る剛健な兄”と見る。 そういう見方をされている事実を知らされるたび、瞬は 大いに機嫌を損ねてしまうのだ。 「おまえらは、ほんと、いつまで経っても、どこまでいっても 変わんねーつーか、何つーか……。いつもいつも お兄様を守る話ばっかで、進歩も成長もねーな。世の中、刻一刻と変化してんだぜ。今、守る守らないつったら、まず出てくるのは お国のことだろ」 「いや、星矢。昨今 誰もが戦争のことばかり考えていると思ったら、それは大きな間違いだ。世のお嬢様方は、城戸侯爵家の子息は二人共 西洋の人形のように 綺麗で、お姫様と お姫様を守る騎士のようだと、きゃーきゃー騒いでいる。『瞬様になって、氷河様に守られたいー』とか何とか言って、二人に憧れている女学生が多いらしいぞ」 「女学生?」 その単語を聞いた途端、星矢は うんざりした顔になった。 昨年から 氷河と瞬の母校である学習院に 華族女学校を併合する計画が進行しているせいで、最近 やたらと東京帝大を始め、全国の官立の大学を男女共学にすべきだと主張する女学生が かまびすしいのだ。 女学生だけでなく男子学生の中にも そうすべきだと騒ぐ者が少なくない中、星矢は断固とした男女共学反対論者だった。 星矢の家は女性の発言権が強く、特に星矢は 毎日 姉に頭が上がらない生活を余儀なくされている。 そのため、せめて学校の中では男だけで のびのびと学業に励みたい――というのが、星矢の切なる願いなのだ。 社会の変化変貌は当然のことと考えている星矢も、その点に関してだけは徹底した保守派だった。 そして、瞬は そんな星矢と意見を異にして、男女共学賛成派だった。 というより、瞬は そんなことはどうでもよかったのである。 そうしたいと望む人間が多いのであれば そうすればいいというのが、瞬の考え。 瞬にとって何より大事なことは、 「それは誤解だよ。氷河兄様を守っているのは僕の方だよ!」 という事実を、世が認め、兄が認めてくれているかどうかということだった。 「おまえは そう言うけど、実際はさー……」 「瞬の言う通りだ」 星矢に余計なことを言わせないために、氷河が瞬の主張を全面的に認め、賛同する。 兄のその言葉を聞くと、瞬は、それこそ 花がほころぶような笑顔になった。 世のお嬢様方が“二人に憧れている”というのは どちらが爵位を継ぐのかが わからないから、的を定められずいるだけのことなのだ。 瞬と氷河は、そんな お嬢様方に全く関心がなかった。 星矢が、二人の そんなやりとりを見て、かなり本気で案じ顔になる。 「おまえ、そんな女の子みたいな顔してるのに、戦争になったら本当に氷河を守るために敵陣に突っ込んでいきそうだな」 「その前に戦争回避のための努力はするけど、兄様を守るためにそうしなきゃならないのなら、僕は もちろんそうするよ」 「冗談になんねーから、んなこと言うのはやめておけ」 日英同盟締結以来、世論は開戦に傾きつつあった。 戦争の相手国は もちろん、氷河の母の故国ロシアである。 この帝大からも、陸軍士官学校や海軍大学校に転校する者が増えていた。 学習院と違って平民の多い帝大では、自分の力で身を立て 名を上げようとする意欲が旺盛な学生が多い。 今、その目的実現に関して最も大きな可能性があり、最も近い道が、軍人になって手柄をあげることだった。 「俺もそうしようかって考えたことはあるんだけど、姉さんが大反対でさー。俺が士官になんかなったりしたら、無謀な特攻で部隊を全滅させるのが落ちだから、お国のために それはやめとけって言うんだぜ。ひでーだろ」 「星矢のお姉さんの判断は正しいと思うけど……」 「瞬、おまえまで そんなこと言うのかよ。友だち甲斐がねーなー」 「友だちだから言うんだよ」 「……」 “友だち”に真顔で そう言われた星矢は、思い切り 口をとがらせたのだが、反論の論拠を見い出せなかったのか、彼は そのまま黙り込んでしまった。 だが、実際に、今 この国で そんなふうに呑気に 憧れを語っているのは女学生くらいのものだったのである。 大人と男たちは、表面上はどうあれ、誰もが 気持ちをぴりぴりさせていた――高揚していた。 10年前の日清戦争での勝利の記憶は、大人たちの中では まだ鮮明である。 歴史上、他国との戦争に敗れたことがない神国日本は、戦争をすれば必ず勝つ。 そう信じている者は、知識層の中にも多かった。 ロシアとの戦争は避けられないだろう。 ほとんど すべての国民が、開戦についての賛否はどうあれ、そうなることを信じていた。 氷河の友人も、それは例外ではなかった。 「おまえは今は、あまり目立つことはしない方がいい」 紫龍に低い声で忠告された氷河が、 「俺は常に地味に生きている」 と、軽口で応じる。 だが、そう答える氷河の目は全く笑っていなかった。 この戦争で、城戸侯爵家の爵位が氷河に行く可能性はなくなったと、まことしやかに噂する者も多い。 よりにもよって、敵国がロシアなのだ。 瞬は――氷河よりも瞬の方が――その空気を厭うていた。 「日本が勝つに決まってるって、みんなは言うけど、彼等はロシアの広さを知らないのかな。今の日本人は、誰もが夢を見過ぎているみたいで、僕、恐い。勝っても負けても、戦争なんて ろくなことにならないのに」 「日本に勝つ目がないわけじゃない。今のロシアは、国内の政情は不安定、国外にも対立国を作りすぎた。だが、勝っても負けても、結果が ろくなことにならないというのには同感だな」 「……」 戦争になれば、その先に待っているのは勝利。 そして、その勝利は、つい数十年前まで欧米列強に強いられた不平等条約によって屈辱を味わわされていた日本を世界の一等国に押し上げることになるだろう。 疑いもなく そう信じている大多数の日本人も一種異様だが、兄のように、二つの故国の争いを冷静に考察できてしまうのも悲しい――幸福なことではないような気がする。 故国と故国の戦争を、他国と他国の争いのように 突き放して語らざるを得ない兄が、瞬には 痛ましく感じられてならなかった。 世の中が、そんなふうに 兄を苦しめることしかしないのだから、せめて自分は 国益のことなど考えず、兄のことだけを考えていたい。 それで国に文句など言わせない――瞬は、そう思ったのである。 「大丈夫。氷河兄様は城戸侯爵家の嫡男で、たとえ お母様の故国と戦争になっても、兄様を敵国人扱いする人なんていないから」 「別に敵国人扱いされても構わん。俺にロシア人の血が流れているのは事実だし、それを負い目に思ったこともない」 「ん……うん……」 冷静を装う振りは上手いが、兄の本来の姿が 尋常でない激情家なのだということを、瞬は知っていた。 興味のないものは徹底的に無視するが、執心を覚えるものには どこまでも執着し続ける。 前者の代表格が 国や社会、後者の代表格が 母なるもの。そして、おそらく彼の弟。 兄が 彼の弟を傷付ける者に 容赦のない報復を加える様を、瞬は幾度も見てきた。 大抵は、その人物の最も大切なものを奪い、傷付けることによって。 兄を侮辱することで 彼の弟を傷付けた 宇多源氏の血を引くA子爵に“城戸侯爵が極秘裏に得た情報”と言って まことしやかな偽情報を流して、彼が家運を賭けて起こした事業を失敗させ、子爵家を破産に追い込むようなことも、瞬の兄は平然としてのけた。 A子爵は、元公家の迂愚ゆえに 自身の破産の理由に気付いてもいないようだったが、誰もが彼のように迂闊とは限らない。 自身の不運不幸が誰によって もたらされることになったのか気付いている者もいるだろう。 瞬の兄は、彼の北の故国同様、敵を作りすぎる男だった。 彼が冷静で穏やかなのは、表面上だけのことなのだ。 だからこそ――。 「兄様は僕が守るの。兄様をいじめる人なんて、僕が許さない」 これまで 弟のために兄が為してきた様々な事柄を思い出し、身体に震えを感じた瞬は、隣りの席に着いている兄の腕に両手を絡ませ しがみついた。 瞬の怯えが伝染ったわけではないだろうに、兄の身体が不意に強張る。 「兄様?」 「あ、いや……。ありがとう。頼りにしている」 「うん……」 兄はすぐに いつもの兄に戻り、穏やかな微笑を弟に返してくれたのだが、瞬は見慣れているはずの兄の微笑に、何か違和感のようなものを感じることになったのである。 |