日本とロシアの戦争は、1904年2月8日、清国 旅順港での、ロシア旅順艦隊と日本海軍駆逐艦の戦闘によって始まった。 2月10日、日本政府からロシア政府への宣戦布告。 開戦前には その時に備え、ほとんど帰宅することなく せわしなく活動していた城戸侯爵は、開戦と同時に休暇を取る余裕ができたため、久方振りに自邸に戻った。 そして、彼は、その日のうちに、便宜上 彼の息子ということになっている氷河から、 「城戸侯爵。俺は この家を出ようと思う」 という言葉を告げられたのだった。 便宜上とはいえ、親子が二人で言葉を交わすのは何年振りか。 もしかしたら、これが初めてのことかもしれない。 兄弟が父と話す機会がないではなかったのだが、氷河が父と話をしなければならない時には いつも、兄が父にいじめられることを危惧した瞬が その場に同席していたのだ。 侯爵は、息子からの申し出に驚きを覚えはしなかった。 彼は、便宜上の息子となっている氷河が、城戸家の爵位や財に執着していないことを知っていたし、彼が 城戸侯爵を父として慕っていないことも承知していた。 遅かれ早かれ、氷河が この家を出ていくだろうことを察してもいた。 ただ 侯爵は、その時 氷河が瞬を伴って この家を出ていこうとするのではないかと、それだけは懸念していたのである。 だが、そうではなかったらしい。 氷河は、 「城戸の爵位は瞬に」 と短く言った。 つまり、瞬を残して この家を出ると。 無駄口で時間を費やす趣味はない。 侯爵は、彼がずっと知りたかったこと、確かめたかったことを、単刀直入に金髪の息子に尋ねていった。 「おまえは、おまえの本当の父親が誰なのかを知っているのか」 と。 彼の出生に関わる重大事だというのに、城戸侯爵への氷河の答えは、 「知らん。だが、俺は瞬の兄じゃない」 という、実にあっさりしたものだった。 いったい彼は どういうつもりで そう言うのか――。 侯爵は、腹の底の見えない相手と対峙する状況を数えるほどしか経験したことがなく、それゆえ彼は 今 奇妙な緊張感を強いられていた。 いずれにしても、仮にも息子に『家を出る』と言われ、『はい、どうぞ』と送り出すことは、彼にはできなかった。 そうしてしまうには あまりにも――氷河は 彼にとって出色の息子だったから。 「どうしても この家を出るというのなら、しかるべき家に養子の口を探してやろう。この時世だ、いくらでも没落華族の家がある。おまえには 多額の準備金をつけてやろう。それを元手に、おまえの才覚で その家を立て直してやるがいい」 「いらん。俺は母の故国に戻る。こんな見てくれの息子がいたのでは、城戸の立場もよろしくないだろう」 「毛唐が一人いるくらいでは、この家の屋台骨はびくともせん。まさか それが、おまえが この家を出る理由なのか? 母の故国との戦争が?」 瞬の兄が瞬を残して家を出る理由が、そんな詰まらないものであるはずがない。 侯爵は そう思っていたし、事実 そうではないようだった。 二つの故国の戦争など、氷河には何の意味もないことだったらしい。 「ロシアの南下政策、日本の朝鮮半島進出。この戦争は、二つの国の利害が対立しただけの――要するにエゴのぶつかり合いだ。俺には全く興味がない。だが、敵国人の血が流れている俺がこの家にいると、戦況によって 俺の立場は微妙なものになる。俺を憎む者も出てくるかもしれない。瞬は そんな俺を守ろうとして何をするかわからない。俺は瞬に優しくすると、瞬の母に約束した。今の俺が瞬にしてやれる“優しいこと”は、瞬の側を離れることだけだ」 瞬に優しくするため。 それならば、“詰まらぬ理由”ではない。 だが、それは瞬を悲しませることでもある。 侯爵は、氷河の言う理由に完全に得心することはできなかった。 「ロシアに帰れば 帰ったで、日本人扱いされて苦労するだけだ。同じように苦労するなら住み慣れた日本の方が まだまし。ロシアの政情は かなり不安定だぞ」 「この見てくれなら、大丈夫だろう。日本から来たと喧伝してまわるほど、俺は馬鹿じゃない。情勢が情勢で、ロシアに渡るのが面倒だ。侯爵の力で何とかしてほしい。その後は、俺は、侯爵家に対して 一切 援助は求めない」 「何とかしてやらぬこともないぞ。おまえが この家を出る本当の理由を白状するなら。おまえは、城戸の家の役に立つ。その才を みすみす諦めろというんだ。それに見合った代償を払え。真実という代償を」 金で購えないほどのものを支払うなら 望みを叶えてやる――それが侯爵が求める代償、対価だった。 何も聞かずに願いを叶えるという親らしい行動に とことん無縁な公爵の前で、氷河は折れるしかなかったのである。 いかにも不本意――むしろ面倒という様子で、氷河は口を開いた。 「俺は、あんたの才覚は認めているが、人間としてのあんたは嫌いだ。あんただけじゃなく、大抵の人間が嫌いだ。世の中自体を嫌っているといっていい。俺が温厚な優等生の振りをしていたのは、兄のせいで 瞬が恥をかくことがないようにするためだ。馬鹿で ろくでなしの兄では、瞬が肩身の狭い思いをするだろうからな。俺は、瞬が誰に対しても誇れる兄でいなければならなかった。でなければ、真面目に学校に行ったり、学業や運動にいそしんだりもしなかった。ろくな教師のいない学校で、右に倣えの自主性無視、個性抹殺の集団教育なんて まっぴらだ。俺は本当は ただの拗ね者だ」 “城戸侯爵家の美しい ご兄弟”。 その片割れの本性と本音に、彼の父親は 苦笑いすることになった。 氷河が健気な男なのか、狡猾な男なのか、その判断が難しい。 「自分の姿が よく見えているのは結構なことだ。その おまえの目には、この戦争が どう見えているんだ? 日本が負けると考えているのか?」 「どちらが勝っても負けても、本国が戦場になるわけじゃないからな。戦場は朝鮮半島と清。勝手な奴等だと思うだけだ」 「おまえの見方は妥当だ。正しい。だが――」 「俺が守りたいのは瞬だけだ。城戸侯爵家の体面でも、爵位でもない。だが、俺よりは、城戸侯爵家の力の方が瞬を守ることができるだろう」 「だが――見えすぎているのも不幸だな」 「俺の父が誰なのか、そんなことはどうでもいいんだ。俺は、俺の母が誰なのかを知っている。二人の母を知っている」 「二人の母のいた家を出るというのか」 「瞬のためだ」 「……」 『瞬のため』 氷河は、その言葉を繰り返す。 それ以外の理由はないのだろうと、侯爵も思っていた。 だが、氷河が『瞬のため』にしようとしていることは、瞬を悲しませることでもある。 本当に瞬のためを思うのなら、氷河は、敵国人のそしりに耐え、瞬の側にいるべきなのだ。 にもかかわらず、彼が そうしないのは なぜなのか。 侯爵は、氷河を問い詰めようとした。 侯爵がそうする前に、氷河が“真実”を支払ってくる。 「俺は瞬を愛しすぎてしまった。これ以上 一緒にいることはできない。俺は瞬のすべてを独占したくなる。既に 俺は、この世界には瞬だけがいればいいと思っている。瞬を俺だけのものにしておくために、俺は瞬に何をするかわからない」 「……」 それが氷河の“真実”であるらしい。 城戸家の一員としての地位、何不自由のない生活、恵まれた才能を発揮する場所、その結果 得られる栄誉。 それら すべてを捨てる価値のあるもの。 世界を動かすものは、国でも 財力でも 権力でも 思想でも 宗教でも 豊かな資源でもなく、ただ愛の力だけなのだ。 「そうか……」 それは城戸侯爵にも納得できる理由だった。 彼自身が その力によって 彼の人生を変えさせられていたから。 瞬にも隠し通そうとしていたのだろう真実を、嫌いな人間に支払った氷河。 その愛に免じて、侯爵は、彼の息子に釣り銭を返すことにした。 「私は――」 人は 結局、その力に抗うことはできないのだ。 「私は若かった。自分の才能に自信があり、野心満々で、私は この家に入った。そこで おまえの母に出会ったんだ。おまえの母は美しく、私は彼女に憧れた。私の妻は不思議な女で、おまえの母に対する私の憧れの気持ちに気付いていたろうに、おまえの母に親しんでいって――ある日、私に言った。『ナターシャ様は 美しくて愛情深く、お優しい方。旦那様が好意を抱かれる気持ちは よくわかります』とな。それだけだ。妻に そのつもりはなかったのかもしれないが、私は 釘を刺されたも同然で――。自覚があるのか ないのか、いずれにしても 私は妻を賢い女だと思った。私は 賢い人間が好きでな」 「……」 まさか城戸侯爵の恋の話を聞くことがあろうとは。 それ以前に、まさか城戸侯爵が恋をしたことがあったとは。 驚きに目をみはり、そして、氷河もまた得心したのである。 その力には、誰も抗うことはできないのだ。 「瞬の母で、瞬と俺を育ててくれた人だ。彼女の聡明は、愛と誠意が生むものだった」 「愛と誠意――難物だな。実に 手強い敵だ」 だが、それが なければ 人は人を動かすことはできない。 政治や経済の世界でも、それが欠けていれば、人は結局 真の成功に至ることはできないのだ。 目先の利益だけを考え、そのために破滅・没落していった華族や政治家を、侯爵は これまで数多く見てきていた。 「俺と瞬は兄弟ではないのか」 「実の兄弟以上に兄弟だろう」 それが、城戸侯爵が 彼の息子であり、彼の息子を愛する男に贈った はなむけの言葉だった。 |