「兄様はどこっ。兄様をどこにやったの !? 」
侯爵が息子のための旅券を手に入れた翌日、氷河は、彼が生まれ育った家、彼の二人の母の思い出のある家、そして瞬のいる家を出ていった。
この数日 兄の様子が おかしいことには、瞬も気付いていたのだろう。
その日 目覚めて、いつも通り 兄の部屋に行き、そこに兄の姿がないことに気付くや、瞬は彼の父の私室に駆け込んできた。
この家から氷河の姿が消えれば、瞬が騒ぎを起こすことはわかっていたので、侯爵は 殊更 冷静を装って、兄に愛され過ぎた弟の来訪を――ほとんど襲撃だったが――迎えたのである。

「騒ぐな。あの姿だ。ロシアとの戦争で犠牲者が出るようになれば、氷河は敵国人の血が流れているというだけで、いわれのない中傷を受け、敵視され、迫害を受けることになるかもしれない。だから、用心のために、先代の公爵が留学していた頃の友人のつてを頼り、氷河は サンクトペテルブルクの伯爵家に 一時 身を寄せることになった」
「そんな必要ない! 僕が兄様を守る! 連れ戻しに行く!」
侯爵が事前に用意しておいた説明を、瞬は険しい声で言下に突っぱねた。
それでも 侯爵は、用意しておいた嘘を重ねることしかできなかったが。
「瞬。落ち着いて考えろ。もし この戦争で日本が負けて 大陸と朝鮮半島の利権を失えば、資源の少ない この国は悲惨なことになるだろう。日本が勝てば勝ったで、氷河は敗戦国の人間だ。どちらにしても、氷河はここにいない方がいいんだ」

「だから何! だから どうだっていうの! 兄様は僕が守る!」
「瞬。氷河は、自分が傷付けられることで おまえが悲しむ姿を見たくはないと言っていた。氷河が、“おまえのため”以外の理由で、おまえの側を離れることがあると思うのか」
「僕のため……?」
「他に どんな理由がある」
「あ……」
『おまえのため』
『おまえが悲しむ姿を見たくないから』
そう言われてしまうと、瞬には『それは嘘だ』と言い張ることができなかったのだろう。
父が兄を追い出したのだと疑うこともできなくなる。
兄が 弟のためになら何でもするだろうことが、瞬には わかっていたから。

「……どうして……どうして、戦争なんかするの……っ!」
戦争さえ起こらなければ、こんなことにはならなかった。
そう思うほどに、戦い争う人間というものが、瞬には醜く愚かな存在であるように感じられるのかもしれない。
瞳に涙をにじませて、瞬が唇をきつく噛みしめる。
本当に なぜなのだろうと、侯爵も思っていた。
「私のように 抜け目のない人間を より豊かにし、無能な輩を没落させるため、かな。自然淘汰を待ちきれない社会による淘汰の一手段というところか」
「え」
「おまえは もう少し賢い子だと思っていたが。おまえは、自分が城戸家の財力と権威に守られていることを知った方がいい。おまえを守っているのは氷河ではなく、侯爵家の力だ。私の力だ。これまで氷河を守っていたものも、おまえではない。この私だ」
「父様は、僕と兄様を無能無力だというつもり」
「瞬……」

抑揚のない声で、瞬が挑むような目を父に向けてくる。
氷河が 温厚な優等生を演じていたように、瞬もまた、か弱い花を演じていたのだろう。
おそらくは、兄を自分の許に引きとめておくために。
そう、侯爵は思った。
自分の息子に――もとい、息子たちに――城戸侯爵は ぞくぞくするものを感じ始めていたのである。
この二人が城戸の力を手に入れたなら、二人は その力をどう使うのか。
考えただけで、侯爵は興奮を抑えられなかった。
侯爵は、だから、この美しい息子のために、真実を教えてやらなければならないと思ったのである。
この強さ美しさ激しさに対する、それが礼儀だと彼は思った。

「戦争が起こらなくても、あれはいずれ この家を出ていっていただろう」
「どうしてっ。父様が兄様に冷たくするから !? 」
「そんなことで、あれが動じるか。そうではない。あれは、おまえを愛しすぎたのだ。おまえの側にいて 兄の振りを続けるにも 限界というものがある」
「それは……どういう意味」
「あれにとって、おまえはすべてだ。弟であり、友であり、母の代理人であり、同じ目的に向かう同志であり、命であり、世界そのものであり、そして、恋人でもある」
「恋……?」
「自分の命より大切なものがあるということは、とても危険なことだ。おまえは、あれを破滅に追い込む力を持っている」
「僕が兄様を破滅させる……?」

瞬の瞳と表情から 感情が消える。
怒りも嘆きも すべてが消える。
ふいに無防備な子供に戻ってしまったような“城戸侯爵家の美しい ご兄弟”の片割れ。
その日、父と息子は それ以上の言葉を交わすことはなかった。






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