日本とロシアの戦争が終わったのは、開戦から1年半後、開戦の翌年1905年9月5日。
戦争は極東の小さな島国 日本の勝利で決着がつき、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋で、日本とロシア帝国の間には講和条約が結ばれた。
いわゆるポーツマス条約である。
戦争は結局、日本にもロシアにも ろくなことにはならなかった。
アジアの小国が白色人種の大国を打ち破った歴史的勝利にもかかわらず、その勝利によって日本が得たものは少なく、ロシアは その敗戦以後、革命への道を ひた走ることになる。

だが、とにかく戦争は終わったのだ。
終戦後、瞬が最初にしたことは、兄の行方を捜すこと。
瞬は その人を、終戦から半年後、思いがけない場所で ついに見付けた。
ロシアではなく 日本。東京市K区K町。
名目上は中立中道を謳う小さな新聞社。
その人は、崩れ落ちてこないことが不思議なほど雑然と資料や書類が積み重ねられた狭い執筆室の奥で、深夜 ただ一人で原稿用紙にペンを走らせていた。

「その姿で、日本にいるのは危険なんじゃなかったの」
朝まで誰も来ないと思っていたのだろう。
その人は、人の声に驚き、次に その声に聞き覚えのあることに驚き、最後に 恐れさえ感じているような様子で後ろを のろのろと振り返った。
そして、そこにいる人の姿を認め、苦しそうに顔を歪めた。
「英国人――同盟国人の振りをすればいいからな。なぜ ここがわかった」
2年もの時を経た再会を喜ぶ気配もなく、かすれた声で瞬に問うてくる兄の つれない態度に、瞬は唇を噛みしめたのである。

「兄様が教えてくれたから」
「俺が?」
「そうだよ。戦争が終わってからずっと、僕は何人もの人間を使って ロシアにいるはずの兄様を捜させていた。僕自身も何度もロシアに渡った。でも、ロシアは広くて――自分で捜し出すのは諦めるしかないのかと思い始めていたんだ。兄様が自分から戻ってきてくれる時を待つしかないのかと。でも、数日前、創刊されたばかりの ちょっと変わった新聞を読んで――論調が兄様そっくりだった。異様なほど冷たくて客観的で、すべてを突き放してて、何もかもが他人事だって言ってるみたいに 国や政治を語っているのに、冷ややかなほどに 冷めるほどに 熱くて――兄様の書いた記事でしょう? 日本もロシアも欧米も清も朝鮮も みんな大馬鹿だなんて、この新聞社の社長は どうして こんな危険な記者を雇ったの。発禁処分を食らっても知らないから」

「それで わかったのか。俺も迂闊な……」
氷河は、かなり無理をして、かろうじて苦笑と呼べるような表情を作った。
瞬が無言で そんな兄を見詰めている。
それで氷河は悟ったのである。
瞬の兄が瞬の側を離れた本当の訳を、城戸侯爵は彼の息子に知らせてしまったのだと。
では、隠さなければならないことは もう何もない。

「離れた方が楽になれると思った。実際、俺はロシアに渡ったんだ。あの、広いばかりで何もない国、おまえのいない大地に。だが、おまえと離れているのは苦しくて――。おまえの姿を見ることのできないところでは、俺は生きていられない。だから、せめて同じ国、同じ土の上でと……」
「僕のところに戻ってきて。僕の側にいて」
「侯爵から聞いたんだろう。俺はおまえに何をするかわからない。おまえを苦しめることになったら……俺が苦しいんだ」
「苦しいのなら、兄様は僕が守るから 兄様が苦しまないように」
「おまえに、どうやって、この苦しみを消すことができるというんだっ!」

瞬に怒声を張り上げるなど、もしかしたら生まれて初めてのことだったかもしれない。
決して苦しませたくない人、悲しませたくない人、涙を流させたくない人を、自分は苦しませ悲しませ泣かせてしまうのだろうかと、氷河は瞬を怒鳴りつけてから蒼白になった。
しかし、瞬は泣かなかった。
泣かずに、氷河の名を呼んだ。

「氷河」
『兄様』ではなく『氷河』。
瞬に名を呼ばれてやっと、氷河は気付いたのである。
ここにいるのは、自分の弟ではないことに。
弟ではない人が、兄ではない人を見詰め、静かに訴えてくる。
「僕は氷河が好きだよ。氷河と離れるくらいなら、死んだ方がいい」
「瞬……」
「爵位も家もほしくない。氷河が城戸の家に帰ってきてくれないのなら、僕が家を出て、氷河のところにくる」
「おまえは何不自由のない暮らしをしかしらない華族の御曹司だ。そんなことができるわけがない」
そう反駁しながら、自分は何を言っているのだろうと、氷河は訝っていた。
この瞬は、もう自分の小さな弟ではない。
可憐で か弱い花でもない――。
瞬が、不敵に可愛らしい微笑を、兄だった男に投げてくる。

「僕を見くびらないで。僕は、幸か不幸か、城戸侯爵の息子だ。彼の才覚を受け継いでいる。もし氷河を守るのに、お金や権力が必要なのなら、僕は父様とは違うやり方で それを手に入れてみせる」
「どうやってだ」
「どうやって? そうだね。たとえば、この新聞社の商売敵になる新聞社を作って、氷河ごと この新聞社を乗っ取るというのはどう?」
「……」
瞬は本当に やりかねなかった。
瞬なら やるだろうと思った。
だから、氷河は観念するしかなかったのである。

「それは困る。そんなことになったら、俺は、俺のような記者を雇ってくれた編集長に申し訳が立たん」
「氷河、少し人間が丸くなった? 氷河が僕以外の人の立場を気遣うなんて」
「この新聞社の主筆 兼 編集長は紫龍だ」
「え……」
自分の同窓生、氷河の同級生の名を聞かされて、瞬は2度3度と瞬きをした。
そして、小さく忍び笑いを洩らす。
「僕も迂闊だ。氷河の文章だって思ったら、いても立ってもいられなくなって、この場所を探すことしか頭になくなって――。それ以外のことに気がまわらなかった。氷河の上司の名前を確かめることも思いつかなかった……」

そう言って微笑む姿は、相変わらず花のようなのに――。
「城戸侯爵家の力なんかなくたって、僕は どうしたって生きていける。でも、氷河がいないと、僕は生きていられない。僕は氷河だけがほしい」
瞬は花ではないのだ。
花は、その美しい姿で 人の愛を得るが、花自身は何ものかを愛することはない。何ものかを欲することはない。
「氷河が苦しくないように、僕が苦しくないように、僕は命をかけて氷河を守るから、僕を氷河の側にいさせて」
花は、これほど甘い言葉を吐かない。
花は、これほど必死な目をしない。
花は、瞬ほど美しくもなければ、瞬ほど強くもない。
花は、瞬ほど魅惑的ではない――。

「ずるいぞ。俺はおまえに優しくすると、俺たちの母に誓った。俺はおまえを突き放せない」
「うん……。きっと、そうだと思った」
瞬が 安堵したような息をつき、瞳を潤ませる。
そして、瞬は氷河に言った。
「僕を抱きしめて。僕は、氷河が側にいてくれなかった2年間、寂しくて 毎日 泣いていたんだから」
氷河が、瞬のその言葉の通りにする。
一度触れてしまうと、氷河の腕には自然に力がこもり、その力が どんどん強くなり、やがて瞬が身動きもできないほど、氷河の抱擁は強く激しいものになっていった。
おそらく もはや二度と離れることはできない。
氷河は腹をくくるしかなかったのである。
自分は この花のような人間を、一生 命のすべてをかけて愛し尽くすしかないのだと。

「恐がらないで。僕が いつだって、氷河を守るから。僕は、氷河のためになら何でもする。どんなことでもするから」
瞬の身体の温もり。
その 細さ、やわらかさ。
なだめ、あやし、鎮めるようでいて、激情を煽る その言葉。
その言葉を受け入れ 頷き、その身体を抱きしめる腕に更に力をこめ、その髪に唇を押し当てること以外、氷河に何ができただろう。
人は誰も、愛の力には 抗えないようにできているのだ。






Fin.






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