地上で最も清らかな魂の持ち主であるところの瞬が ラウンジを出ていくと、その場に残るのは、下ネタOKの、瞬ほどには清らかでない三人の男たちである。 瞬がラウンジのドアを閉じたあと、用心のために30秒ほどの間をおいてから、紫龍は おもむろに、 「さて、キグナス氷河殿の反省の弁でも聞こうか」 と 話を切り出した。 が。 瞬に聞かれることを避けるためとはいえ、紫龍は用心のための時間など置くべきではなかったのだ。 氷河は、その30秒間で、己れが犯した軽率を すっかり忘れてしまったらしく、紫龍は氷河の反省の弁を聞くことはできなかったのである。 代わりに彼が聞くことができたのは、 「そういえば、俺は瞬と一緒に風呂に入ったことがない。瞬は、どういうわけか、入浴中は必ず浴室に鍵をかけるんだ」 という、たわけた疑義申し立てだった。 全く反省の色のない氷河に、星矢が、 「おまえと一緒に 風呂になんか入ったら、ろくなことにならないってことが、瞬にも わかってんだろ。何を吸わされるか、わかったもんじゃない」 と応じたのは、至極 当然のことだったろう。 「うむ。瞬の判断は賢明だな」 紫龍も、星矢の意見に賛同する。 瞬の賢明な判断は、しかし、氷河には合点のいかないことだったらしい。 彼は、瞬ほどには清らかでない下ネタOKの仲間たちに敢然と反論してきた。 「なぜ、風呂が駄目なんだ。ベッドで それ以上のことを許してくれているのに、風呂場でだけ 俺を締め出しても、意味がないだろう」 「せめて、風呂に入ってる時くらいは、一人でゆっくりしたいってことなんじゃねーのか? 人間には、一人になれる時間ってのが必要なんだ。特に おまえみたいに厄介で面倒で騒がしいのに、四六時中 つきまとわれてる人間には。おまえは 存在そのものが騒がしくて迷惑なんだよ」 それは、疑念を抱くようなことではない――改まって考えなればらないようなことではない。 少なくとも、星矢にとってはそうだった。 なじるような星矢の言葉を、しかし、氷河が あっさりと無視する。 否、氷河は星矢の言葉を無視したのではなかっただろう。 星矢の声は、氷河の耳には聞こえていなかったのだ。 氷河は、基本的に、自分が言いたいことだけを言い、自分がしたいことだけをし、自分が聞きたいことだけを聞く男。 ゆえに、瞬の振舞いの理由が気になりだしたら、他のすべてのことは、氷河にとって 顧みる価値も必要性もない雑務になってしまうのだ。 「今まで あまり気にしたことがなかったんだが、そういえば、瞬の入浴時間は異様に長い。瞬は風呂場で、俺に隠れて 何か よからぬことをしているのでは――」 「しねーよ! おまえじゃあるまいし」 「だが、それにしても、1時間は長すぎないか? どうすれば、入浴にそんなに時間をかけることができるんだ」 「1時間? そりゃ、確かに長すぎるな」 星矢が氷河の疑念に 引きずられてしまったのは、彼の入浴時間が その4分の1程度だったから――だったろう。 もちろん 人間には“一人になれる時間”が必要である。 とはいえ 人は、その“一人になれた時間”にも何事かを行なうものだろう。 本を読む、音楽を聞く、飲食する――何をするかは 人によって様々だろうが、一人でいるからといって、その人間は その時間を、何もせず、ぼんやりと無為に過ごすわけではない――普通は。 ただぼんやりと無為に過ごす人間もいないことはないだろうが、“ただぼんやりと無為に過ごす”行為は、そうそう長く続けられる行為ではない。 そして、浴室は、“ただぼんやりと無為に過ごす”以外の行為をするには 極めて不向きな場所である――浴室でできることは限られているのだ。 入浴所要時間が15分の星矢には、1時間という瞬の入浴時間は驚異以外の何物でもなかった。 「これまで幾度か、一緒に入ろうと言ってみたことはあるんだが、瞬は そのたびに 俺を断固として拒否してくれた」 「それは当たりまえだろ」 「だが、そのあとで、浴室を出れば、瞬は俺に何でも見せてくれるし、どこにでも触らせてくれるし、あんなことも そんなことも どんなことでもさせてくれるんだぞ。風呂場の外でできることが、なぜ 風呂場の中ではできないんだ。どう考えても おかしい。瞬の風呂場にはどんな謎があるんだ」 瞬の耳と目がないというので、氷河は言いたいことを言いたい放題である。 風呂場の外で 氷河が瞬にどんなことをしているのかは知らないが、風呂場の外で どんなことでもさせてもらえるのなら、それでいいではないか。 それ以上を望むのは 贅沢というものだと、本音を言えば、星矢は思った。 「おまえ以外の男でも連れ込んでるんじゃねーのか」 星矢が投げ遣りな口調で そう言い、 「いくら何でも、それは無理だろう」 紫龍が、星矢の“投げ遣り”を否定する―― 一笑に付す。 紫龍には、それは、一笑に付すべきことだったのだ。 長湯の人間は いくらでもいるし、ミルク風呂に入るために 旅行時には必ずメスのロバ50頭を引き連れていたというポッパエア・サビナを筆頭に、風呂への こだわりで有名な人物はいくらでもいる。 かの楊貴妃などは、肌の乾燥を防ぐために四六時中 風呂に入っていたらしい。 それに比べたら、1時間の入浴など 可愛らしいもの、いちいち気に掛けるようなことでもない。 が、氷河にとって、瞬の浴室の謎は、笑って通り過ぎることのできる問題ではないらしかった。 仲間たちの声など 耳に入っていないかのように、真剣な面持ちで 何やら考え込み始めた氷河に、紫龍は 嫌な予感を覚えた――よくないことが起こる兆候を感じてしまったのである。 「馬鹿なことは考えるなよ、氷河。アルテミスの水浴びを覗き見て、鹿に変身させられたあげく、猟犬に噛み殺されてしまったアクタイオンの例もある。覗きの罰は重い」 「瞬は、アルテミスみたいな欲求不満のヒステリー女とは違う。風呂場を覗かれたくらいのことで、瞬が俺に そんなことをするものか」 「それでも、駄目なものは駄目だ」 もちろん、紫龍は すぐさま 氷河に厳しく釘を刺した。 氷河が よからぬことをしでかして 猟犬に食い殺されるだけなら、彼の仲間たちには何の不都合もないが、大抵の場合、氷河のしでかす“何か”は、彼の仲間たちに とんでもない とばっちりを食らわせ、そのために 彼の仲間たちは多大な迷惑と被害を被ることになるのだ。 そんな事態を、紫龍は 極力 避けたかった。 地上の平和を守るための戦いの中で被る迷惑なら 我慢もするし、恰好もつくが、氷河の風呂場覗きの とばっちりを食い、ろくでもない騒ぎに巻き込まれる事態だけは、紫龍は ご免被りたかったのである。 氷河に釘を刺しながら、同時に 紫龍は、この男に千人風呂の話などするのではなかったと、心の底から後悔していた。 紫龍は、嫌な予感を振り払うことができなかった。 もちろん、紫龍の嫌な予感は現実のものとなる。 |