「わああああ〜っ!」 悲鳴のような、叫喚のような、喚呼のような、いわく言い難い瞬の声が 城戸邸内に響いたのは、それから3時間後。 3日かけての大陸縦断 プラス2日間の船旅は さすがに疲れたと言って、氷河が自室(=瞬の部屋)に 瞬と共に引き上げてから1時間後のことだった。 『いったい何が起こったのか』という気持ちと『ああ、やっぱり』という気持ちが相半ばする胸を抱えて、紫龍と星矢は 瞬の部屋に飛び込んでいったのである。 そこにあったのは、シャツ一枚を羽織っただけの恰好で 生足を さらしている瞬の姿。 瞬の髪は湿気を帯びている。 瞬の その姿を見ただけで、紫龍たちには、ここで何が起きたのか、おおよそ察しがついた(気がした)のである。 「氷河が何か したのか!」 「あれほど 言っておいたのに……。覗きか。それとも、無理に浴室に押し入ろうとしたのか」 そのどちらであっても大差はないのだが、紫龍は一応 瞬に確認を入れた。 瞬が 一度 大きく頷き、その後 小さく二度三度と左右に首を振る。 「どっちなんだ」 瞬の奇妙な反応を訝りつつ、紫龍が 再度 瞬に問う。 が、瞬は 紫龍に明確な答えを返してこなかった。 代わりに、開け放しになっている浴室のドア(より正確には、浴室に続く脱衣所のドア)を、右手の人差し指で指し示す。 いったい何があったのか――氷河はどうなったのか――生きているのか、死んでいるのか。 口をきけずにいるらしい瞬の口から答えを引き出すことを諦めて、紫龍と星矢は 瞬の指し示したドアの向こうに足を踏み入れたのである。 脱衣所の先にある浴室のドアは、脱衣所のドア同様、開いたままになっていた。 「氷河がいないようだが……」 生きているにしても 死んでいるにしても、そこにあるのは 風呂場覗き(もしくは強硬侵入)の報いを受けて倒れ伏している氷河の姿だろう――という 紫龍の推察は当たっていなかった。 瞬の部屋の浴室に 氷河の姿はなかった――そこには誰もいなかった――何もなかった。 しいていうなら、お湯が張られた浴槽の湯面を すいすいと泳ぐ黄色いアヒルの玩具があるだけで。 氷河の遺体との対面をすら覚悟して踏み入った浴室で ご対面できたのは、風呂場では最もポピュラーなアヒルの玩具一つ。 星矢は安堵するより、気が抜けてしまったのである。 「瞬。まさか、おまえが氷河を風呂場からシャットアウトしてたのは、このアヒルチャンで遊んでるところを氷河に見られたくなかったからなのか?」 「違います!」 すっかり緊張感の消えた声で、星矢は瞬に尋ねたのだが、星矢に答えてくる瞬の声は 緊張感に満ち満ちていた。 否、むしろ それは鋭く叫んでいるようでさえあった。 「じゃあ、なんで……つーか、氷河はどこに行ったんだよ。氷河が覗きに来たんだろ? それを おまえが撃退したんだろ?」 そう問うてから、星矢は、『まさか瞬は氷河の覗き(もしくは、押し入り)に驚き 慌てすぎて、氷河を異次元に飛ばしてしまったのか?』という不安に かられたのである。 そうとでも考えなければ、この場に氷河の姿がないことに説明がつかない。 だが、そうではなかったらしい。 「だから、氷河……」 「氷河はどこに行ったんだよ?」 「だから、あのアヒルちゃんが氷河なんだよ……っ!」 「えええええっ !? 」 瞬の声は、かすれているのに涙声だった。 とても冗談を言っているようには見えないし、聞こえない。 改めて湯面のアヒルちゃんに視線を投じると、その黄色いアヒルちゃんはプラスチック製の玩具ではなく、なんと生きているアヒルの雛だった。 「いや……でも、まさか、それは いくら何でも……」 いくら何でも この可愛いアヒルちゃんが氷河だというのには 無理がある。 しかし、瞬は嘘をついているようには見えない。 そもそも 瞬は、そんな嘘をつけるような人間ではない。 本気で怒った時の瞬の強さは 星矢とて よく知っていたが、さすがに その力は こういう方面に作用することはないだろう。 ハーデスに憑依されようが、その小宇宙が神の域に達していようが、瞬は それでも、あくまでも、どこまでも 人間なのだ。 瞬は 決して神ではない。 実際、瞬は、そこまで人間離れはしていなかったようだった。 到底 落ち着きを取り戻したとは言い難かったが、瞬は たった今 この浴室で起こったことを たどたどしい口調で 星矢たちに説明してくれた。 「僕が お風呂に入ってたら、氷河が『風呂場に誰か連れ込んでいるんじゃないだろうな』なんて、変なこと言い出して……。そんなはずないでしょう? そんなの不可能だよ。僕、10分前に氷河の目の前を通って浴室に入ったんだよ。僕、わけが わからなくて、お風呂の中で首をかしげてたんだ。そうしたら 氷河が『入るぞ』って言いながら浴室の鍵を凍りつかせて壊そうとして――僕、慌てて止めようとしたんだよ。氷河が どうして そんなこと言い出したのかは わからないけど、浴室の中を ちょっと見せて、誰もいないことを確かめさせてあげれば、そんな無茶はやめてくれると思って、それで、氷河を なだめながら、浴室の鍵を開けようとしたんだ。そしたら、どこからか『この不埒者め』っていう声が響いてきて、僕が浴室の鍵を開けた時には もう氷河は――氷河がアヒルになってたの……!」 「氷河の奴、本当にアルテミスの怒りを買ったのか……?」 まさかアルテミスがアテナの聖闘士の入浴にまで目を光らせているとは考えにくかったが、この状況は まさにアクタイオンの逸話 そのものである。 紫龍の呟きは、だが、すぐに アルテミスのそれとは思えない声によって退けられた。 「違う」 おそらく 瞬が言っていた、氷河を『不埒者』と断じた声。 姿はなく、声のみ。 それは男の声だった。 「その破廉恥漢をアヒルにしてやったのは、アルテミスではない。もっとも、アルテミスが この場に居合わせたなら、あれも余と同じことをしただろうがな。このような男、アルテミスが最も嫌うタイプの男だ」 狭い浴室に響く声には エコーがかかり、彼の本来の声とは少々違って聞こえたが、それは星矢には忘れたくても忘れられない声だった。 なぜ この声が よりにもよって瞬の風呂場に響いているのかは わからなかったが、ともかく それは、アテナによって その力を封じられたはずの冥府の王ハーデスのものだったのである。 「ハーデス! おまえ、まだ、瞬につきまとってたのかよ!」 星矢の声に非難の響きが混じるのは 当然のことだったろう。 瞬に つきまとうのはいいが(よくもないが)、現われるのが風呂場では、ハーデスも氷河と同レベル。 つまりは、不埒な破廉恥漢なのだ。 「つきまとっているのは、余ではなく、その不埒者の方であろう。余とて、次の機会に備えて 力を蓄えるために、静かに眠りに就いていたいのだ。しかし、こういう大馬鹿者の破廉恥漢が 瞬に つきまとっているのでは、余も おちおち眠ってなどいられない。余は、瞬の清らかさを守らなければならんのだ」 ハーデスに“次の機会”が訪れた時、どう考えても 瞬は この世に生きている人間ではない。 ゆえに、ハーデスが瞬の清らかさを守ることは、(再起を狙う冥府の王にとっては)意味のないことである。 ハーデスの言い草は、星矢には、瞬の入浴を覗き見ようとする男の言い訳にしか聞こえなかった。 「瞬の清らかさを守らなければならんだあ !? そんな見え透いた嘘をつくのはやめろ! それが嘘でなかったとしても、だったら なんで 風呂覗きは こんなことまでして阻止しようとするのに、氷河の もっと破廉恥な真似は放っとくんだよ。矛盾してるじゃないか! 氷河は瞬に、風呂場覗きより もっとろくでもないことしてるだろ。あんなこととか、そんなこととか、瞬は どんなことでもさせてくれるって、氷河は鼻高々で言ってたぞ!」 とハーデスを怒鳴りつけてから、これは瞬の前で言ってはならないセリフだったかと、星矢は胸中で少々 慌てたのである。 幸い 瞬は、アヒルにさせられてしまった氷河に気を取られて、星矢の声が聞こえていなかったか、あるいは 星矢の言葉の意味を解することができるほどの余裕を持てずにいてくれたようだった。 星矢の指摘に、ハーデスが悔しそうに応じてくる。 「余とて、できることなら、この不埒な破廉恥漢に 決定的な罰を下してやりたいのだ。だが、アテナのせいで 力のほとんどを失った余は、今は冥界のレテの泉を通して 地上世界を垣間見ることができるのみ。水のあるところでしか 瞬を見ることはできぬし、神としての力も使えぬのだ」 ハーデスに何を言われても、星矢には それは風呂場覗きの言い訳にしか聞こえなかったのだが、おそらくハーデスの言っていることは事実なのだろう。 彼の力は風呂場でしか発揮できないのだ。 でなければ 氷河は、ハーデスによって、とうの昔に 瞬のベッドで北京ダックにでも変身させられているはずだった。 「その忌々しい男が 瞬のいる風呂場に 押し入ろうとしたことは、余にとって千載一遇の好機だった。しばらく、その姿のままで過ごすがいい。その姿では、瞬に よからぬこともできまい」 ハーデスの勝ち誇ったような高笑いが 瞬の浴室に木霊する。 それで溜飲が下がったのか、あるいは 今のハーデスの力では それ以上 地上世界に その意識を留め置くことができなかったのか――浴室に響いていたハーデスの高笑いの木霊が完全に消えた時、冥府の王の気配はアテナの聖闘士たちの前から 綺麗さっぱり消えてしまっていた。 瞬の浴室に残っているのは、浴槽の上を すいすいと気持ちよさそうに泳いでいる黄色のアヒルちゃんと、アヒルちゃんの仲間たちだけ。 氷河以上に 自分のしたいことだけをし、他の事柄は一切 顧みないハーデスの行動に、アテナの聖闘士たちは 揃って あっけにとられていた。 |