「わああああ〜っ!」 悲鳴のような、叫喚のような、喚呼のような、いわく言い難い瞬の声が 再び 城戸邸内に響いたのは、氷河がアヒルになってから1週間後。 (おそらく)アヒルの氷河が瞬との7度目の入浴を楽しんでいた時のことだった。 『アヒルの分際で、氷河が瞬に何かしたのか』という気持ちと『やはり、いつまでも この平和が続くはずがなかった』という気持ちが相半ばする胸を抱えて、紫龍と星矢は 瞬の部屋に飛び込んでいったのである。 そこにあったのは、シャツ一枚を羽織っただけの恰好で 生足を さらしている瞬の姿。 瞬の髪は湿気を帯びている。 瞬の その姿を見ただけでは、星矢たちには、ここで何が起きたのか、全く察しがつかなかった。 「瞬! 今度は何だよ!」 「まだヒヨコだったのに、氷河に発情期が来たのか」 星矢と紫龍に問われた瞬は、だが、 「氷河が……氷河が……」 と、氷河の名を繰り返すばかり。 そして、開け放しになっている浴室のドア(より正確には、浴室に続く脱衣所のドア)を、右手の人差し指で指し示す。 いったい何があったのか――氷河はどうなったのか――生きているのか、死んでいるのか。 瞬の口から答えを引き出すことを諦めた紫龍と星矢が、瞬の指し示したドアの向こうに足を踏み入れようとした時、開け放しになっている浴室のドアから よたよたと出てきた小動物。 それは、黄色いアヒルちゃんではなく、(おかしな表現だが)濡れ鼠状態の金色のアナウサギだった。 まだ子供なのだろう。 体長は15センチほどしかない。 何かに例えるなら、それは 服を着ていないピーターラビット――濡れ鼠のピーターラビットだった。 「おい……まさか、これは……」 『これは氷河なのか』と、星矢たちが瞬に尋ねる前に、またしても 姿なきハーデスの声が瞬の浴室内に木霊する。 「ウサギを風呂に入れると死ぬそうだからな。これでもう、この不埒者は瞬と風呂には入れまい。このような破廉恥な男は、いっそ このまま死んでしまえばよいのだ」 毎日 瞬と一緒に風呂場で ぴよぴよ すいすいしている氷河の ふざけた振舞いは、ハーデスを相当 憤らせていたのだろう。 びしょ濡れのウサギの氷河の姿が大いに気に入ったらしく、ハーデスは得意げな高笑いを 瞬の浴室に残し、またしても唐突に その気配を消し去った。 相変わらず 自分のしたいことだけをして他を顧みない男だと、星矢と紫龍はハーデスの去来の唐突さに呆れることになったのである。 が、ハーデスの去来の唐突さなど、今の瞬にはどうでもいいことだった。 問題は、ハーデスが残していった『ウサギを風呂に入れると死ぬ』という言葉。 瞬の頬は、血の気が失せて 真っ青だった。 「氷河……氷河……! 氷河が死んじゃう……!」 濡れ鼠状態のウサギの氷河を胸に抱き、瞬は今にも泣き出しそうだった。 紫龍が、彼とて狼狽していないはずはないのだが、すぐに 瞬を落ち着かせる作業に取りかかる。 「瞬、落ち着け。ウサギが風呂に入れると死ぬというのは、ただの迷信だ」 「め……迷信?」 「ウサギは確かに湿気に弱い動物だが、風呂に入れても死ぬことはない。すぐに乾かしてやれば大丈夫だ。」 「か……乾かしてやれば……」 「そうだ。すぐに水を拭き取って、ドライヤーで 濡れた身体を乾かすんだ。あ、わかっているとは思うが、熱風はだめだぞ」 紫龍に そう言われた瞬は、即座に仲間の指示に従った。 タオルで 濡れ鼠状態のウサギの氷河の身体を吹き、ドライヤーで残った水を飛ばしてやる。 数分後には、濡れ鼠状態だったウサギの氷河は、無事に――と言っていいのかどうかは さておいて――ただのウサギの氷河になっていた。 水分が飛んで身体が軽くなった途端、元気を取り戻したらしく、ウサギの氷河が 瞬の周りで ぴょんぴょん 楽しげに跳び撥ね始める。 「今度はウサギかよ……」 これがアテナの聖闘士の(二度目の)成れの果てかと思うと、星矢は情けなくてならなかったのだが、危険な窃視症の人間の男に比べれば、安全な窃視症のウサギの方が まだましというもの。 瞬は瞬で、元気で可愛いウサギの出現に大喜びである。 「わあ、ふわふわの ふかふか!」 小さなウサギの氷河を抱き上げ 抱きしめて、その背中や耳に 繰り返し頬擦りしながら、瞬は 満悦至極。 氷河もまた、(なにしろ 人間やアヒルでいた時には 瞬に背中に頬擦りなどしてもらえなかったので)、自身のウサギの姿に まんざらでもない様子だった。 結局、アヒルだったものがウサギになっただけで、二人一緒の入浴は継続。 その旺盛な繁殖力ゆえに 多産や豊穣、性のシンボルとされるウサギだが、子ウサギの氷河は まだ交尾は不可能らしく、その方面での不都合もない。 アヒルの氷河がウサギの氷河になっても、城戸邸住人のハッピー状態は 以前と変わらず維持継続されることになったのである。 誰もが幸福だった。 ただ一人の男を除いて。 |