「わああああ〜っ!」
悲鳴のような、叫喚のような、喚呼のような、いわく言い難い瞬の声が 三度(みたび) 城戸邸内に響いたのは、氷河がウサギになってから1週間後。
(おそらく)ウサギの氷河が 瞬との7度目の入浴を楽しんでいた時のことだった。
『今度は何だ』という気持ちと『ハーデスも懲りない男だな』という気持ちが相半ばする胸を抱えて、紫龍と星矢は 瞬の部屋に飛び込んでいったのである。

そこにあったのは、シャツ一枚を羽織っただけの恰好で 生足を さらしている瞬の姿。
瞬の髪は湿気を帯びている。
瞬の その姿を見ただけで、星矢たちには、ここで何が起きたのか、おおよその察しがついた。
「今度は何だよ!」
星矢は もはや 瞬に尋ねることをしなかった。
瞬の浴室に入り、姿の見えないハーデスに向かって――つまりは、瞬の浴室の虚空に向かって――直接 尋ねる。
瞬の浴室の虚空からは、
「猫だ。猫なら、風呂嫌いなはず。風呂を避けるはずだからな」
という、得意げなハーデスの声が返ってきた。
部屋の方を振り返ると、瞬の足許には(猫には屈辱的な表現かもしれないが)濡れ鼠状態の純白の小猫がいて、周囲に水の雫を撒き散らしながら、しきりに瞬の素足に身体を擦りつけている。

「猫という生き物は、元を辿れば リビア砂漠のリビアヤマネコに行き着く。本能的に水に濡れることを恐れる動物だ。意思や感情が風呂に入ることを望んでも、本能が それを妨げるのだ。動物は本能には勝てない。特に、この不届き者は 本能だけで生きている下劣な生き物のようだからな」
今度こそ 氷河と瞬の入浴を阻止できたと確信した様子で、これまで同様の高笑いを瞬の浴室に残し、ハーデスの意識が消えていく。
星矢と紫龍は もはや、ハーデスの去来の唐突さに呆れることもしなかった。

「風呂好きの猫もいるし、氷河はそもそも瞬と風呂に入りたがっているんだが……」
という紫龍の呟きは、ハーデスの許には届かなかっただろう。
「猫の本能が『水に濡れるのが恐い』だったとしてもさ、氷河の本能は『瞬と風呂に入りたい』だろ。つまり、氷河は、意思も理性も感情も本能も『瞬と風呂に入りたい』。氷河の場合は、本能が勝とうが 理性が勝とうが、結局『瞬と風呂に入りたい』以外の結論はないんだよな」
ゆえに当然、氷河は 猫になっても 喜び勇んで 瞬との入浴を続けるに決まっている。
星矢と紫龍は そう思ったし、現実もそうなった。

猫の氷河は、
「おまえと一緒にいるためになら、水を恐れる猫の本能など、愛の力で退けてみせる」
と言って 瞬と共に風呂に入り、
「冬場に 温かいところに もぐり込みたがるのは 猫の本能なんだ」
と言って、瞬のベッドに もぐり込んでいるらしい。
もちろん、安全で小さく可愛い猫の振舞いが 瞬を不快にするはずもなく、瞬は、猫の氷河以上に 毎日 ご機嫌だった。
そういうわけで、ウサギの氷河が猫の氷河になっても、城戸邸住人のハッピー状態は 以前と変わらず維持継続されることになったのである。
誰もが幸福だった。
ただ一人の男を除いて。






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