とはいえ。
瞬をハッピーにし、氷河をハッピーにし、星矢や紫龍までがハッピーでいるという完全に幸福な世界の実現も3度目ともなると、さすがの星矢も この状況に疑念を抱くようになってきていたのである。
星矢が抱くようになった疑念というのは、他でもない。
「なあ、もしかして、ハーデスって馬鹿なのか?」
という疑念だった。
星矢が見たところ、これまでのハーデスの言動は すべて 氷河を幸福にするためのもの。
星矢には、ハーデスは必死になって 氷河の幸福のために努めている――としか思えなかったのだ。

「あまり賢くはないようだな」
紫龍が渋面で、星矢の意見に首肯する。
「どうせ氷河を動物にするならさ、それこそ ゾウとかクジラとか、風呂どころか風呂場にも入れないような動物にすれば手っ取り早いのに、ハーデスの奴、なんだってまた――」
「ハーデスは、氷河に力を与えるのが嫌なのではないか。奴は、あくまでも 氷河を本来の氷河より卑小で非力なものに変身させて、氷河を貶め嘲笑いたいと思っているんだろう」
「人間より非力な動物かあ……。鳥類、哺乳類ときたから、次は両生類か爬虫類、カエルかトカゲあたりかな」
――という星矢の推察は、見事に的中した。

4度目ともなると、もはや瞬は、悲鳴のような、叫喚のような、喚呼のような、いわく言い難い瞬の声を城戸邸内に響かせることもしなかった。
ハーデスは、人間に嫌われがちな姿を持つ動物ということで、氷河をアマガエルに変えたらしいのだが、この地上に存在する すべての命を愛しむ瞬は、安全で小さなカエルの氷河も、アヒルやウサギや猫同様に可愛がった。
カエルの氷河はカエルの氷河で、(こういう表現は魚に対して失礼かもしれないが)水を得た魚のように すいすいと浴槽の中を泳ぎまわり、あるいは 瞬の手の上でカエルの歌を歌いあげて、カエルライフを満喫。
猫の氷河がカエルの氷河になっても、城戸邸住人のハッピー状態は 以前と変わらず維持継続されることになったのである。
そのはずだったのだが。

アヒル、ウサギ、猫ときて、今度はカエル。
冗談で言ったカエルが、まさかの大当たり。
そこまで されても、平和かつ幸せそうにしている氷河の楽観、楽天、むしろ神経の図太さに、最初に神経が もたなくなったのは、なんと天馬座の聖闘士 星矢だった。
次から次に人間外の動物にさせられている氷河ではなく、アテナの聖闘士たちの中では最も常識を備え、優しく繊細な心の持ち主と言われている瞬ではなく、平時は理性的だが いったん切れると誰よりも非論理的な男になる紫龍でもなく、星矢――基本的に大雑把、天衣無縫で猪突猛進、行き当たりばったり、当たって砕けろの星矢が、氷河の太平楽振りに その神経の目盛りの針を振り切ってしまったのである。

が、それは自然で当然のことだったかもしれない。
“基本的に大雑把、天衣無縫で猪突猛進、行き当たりばったり、当たって砕けろ”だからこそ、星矢は、敵に勝利することや 敵より強くあることに価値を置き、アテナの聖闘士として戦えることを 誰よりも誇りに思っている人間だったのだ。
氷河も瞬も紫龍も現状に満足して(とはいわないまでも、現状を受け入れて)いたのでは、この騒動に いつまでも決着がつかない。
そんな状況に、『聖闘士星矢』のタイトルロールであるペガサス星矢が甘んじているわけにはいかない――という、切実な事情もあったろうが。

「氷河、おまえさ。おまえは 瞬と風呂に入れさえすれば、何でもいいのかよ! もう少し、真面目に落ち込むとか、悲嘆に暮れるとか、将来を案じるとかしろよ! 朝から晩まで、のんびり けろけろしてないでさ! おまえ、今の自分が置かれてる状況が どんなだか、ちゃんと理解できてるのか? 人間様が カエルにされたんだぞ! 万物の霊長が両生類!」
いい加減で この騒動に蹴りをつけたい星矢が、瞬の肩の上にいるカエルの氷河を怒鳴りつける。
カエルの氷河は、だが、星矢の怒声を受けても のんびり けろけろの姿勢を崩そうとはしなかった。

勝利や強さにプライドをかけている星矢とは異なり、氷河は大陸的合理性の持ち主だった。
彼は、名より実、誇りや体面より 自らの心身の満足と幸福を取る男だったのだ。
そして、今の彼は、今の自分を幸福だと思い、満足してもいた。
「人間が万物の霊長だなどというのは、人間の思い上がりだろう。ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんなみんな立派に生きているんだ」
「そうは言うけど、カエルに聖衣は装着できねーだろ!」
「小宇宙は燃やせる」
「そういう問題じゃないっつーの!」

ただの一瞬も ためらうことなく命を預けられるほど固い信頼で結ばれた仲間同士とはいえ、二人は独立した別の個人であり、その性格や価値観は異なっている。
島国根性と大陸的合理性。
『武士は食わねど高楊枝』の日本人と、『プライドで腹は膨れない』のロシア人(ハーフ)。
氷河は 自分の欲しいものに正直であり、自分の欲しいものに対してだけ貪欲であり、欲しいものを手に入れるためになら、どんな努力も厭わない男。
何より、彼は愛に生きる男だった。
であればこそ、氷河には、星矢の突然の激昂の訳が理解できなかったのである。
いきり立つ星矢(人間)に、カエルの氷河は、元人間のカエルより珍妙な動物を見るような目を向けた。

「俺は、人間でも、アヒルでも、ウサギでも、猫でも、カエルでも、瞬と一緒にいられるなら、それでいいんだ。俺と一緒にいることで 瞬が幸せでいてくれることが、何より大事で重要だ。その願いが叶うなら、俺自身はアメンボでも、オケラでもいい。瞬を愛する俺の心は、その器がどうであろうと変わることはないし、瞬も、俺がカエルになったからといって、俺に冷たく接したりはしないだろう。俺は瞬の愛を信じている。そして、アヒルにされても、カエルにされても、いつも瞬の幸福を願っている。それで何か不都合があるか」
「あのなー……」
『愛に生きるのは結構だが、アテナの聖闘士としての義務はどうなるのだ』と、星矢は言いたかったのである。
実際に、そう言おうとした。
あいにく、星矢が言おうとした言葉は、氷河の演説に感動した瞬に妨げられて、発せられることはなかったのだが。

「氷河……。氷河、もちろんだよ! 僕は、氷河がカエルになったって、アメンボになったって、氷河のことが大好きだよ!」
日本列島にアンドロメダ島。
星矢以上に島国での生活が長かったはずの瞬は、だが、氷河以上に 愛に生きている人間だった。
自分の手の平に飛び下りてきた小さな緑色のアマガエルを見詰め、瞬が感極まった声で 叫ぶように訴える。
瞬の愛を信じているところのカエルの氷河は、その信頼に見事に応えてくれた瞬を見上げ、
「けろけろけろっ」
と、嬉しそうな鳴き声をあげ、その場でぴょんぴょん跳びはねた。

ただの一瞬も ためらうことなく命を預けられるほど固い信頼で結ばれた仲間同士とはいえ、二人は独立した別の個人であり(現在は人間とカエルであり)、その性格や価値観は異なっている。
そんな二人(一人と一匹)の間に、確かに存在する愛と信頼。
それは、非常に感動的な場面のはずだった。
愛し合い、信じ合う二人(一人と一匹)のせいで、星矢の心身は すっかり疲弊しきっていたが。
「ここって、感動するとこか? 前向きなのも、愛と信頼で結ばれてるのもいいけどさ、俺、まじで疲れてきた……」
「ははははは」
言葉通り 疲労困憊状態らしい星矢に、紫龍が空しい笑い声で応じる。
何事にも全力投球の星矢とは違って、ここいちばんの時にのみ目盛りを振り切るタイプの紫龍も、氷河と瞬が繰り広げる愛と感動の名場面には、少なからず力を削られていたのである。

その場には、そして もう一人、もしかしたら星矢より紫龍より疲れ果てている男がいた。
その男というのは 無論、言わずと知れた、冥府の王その人。
もっとも、彼が疲れているのは、氷河の無限の愛のせいではなく、そんな氷河に付き合っていられる彼の依り代のせい――瞬の心が全く理解できないせいのようだったが。
「瞬。そなた、どんな動物なら、氷河と一緒に風呂に入らぬのだ」
疲れた声で、ハーデスが、地上で最も清らかな魂の持ち主に問う。
地上で最も清らかな魂の持ち主は、一瞬間 その澄んだ瞳に思慮深げな光を宿し、やがて 無邪気な様子でハーデスに答えを返した。
「どんな動物って……。僕より小さくて 力がなくて、お風呂場に入れる動物なら、僕は何でも平気だよ。人間でさえなければ、変なこともされないし、お風呂タイムも ゆっくり過ごせるだろうから」
「人間! その手があったか!」

ハーデスは、“もしかして馬鹿”なのではなく、“正真正銘、本物の馬鹿”だったのだと、次の瞬間、星矢は思ったのである。
瞬の答えを聞くなり、得意満面、意気揚々と、カエルの氷河を人間の氷河に変身させた冥府の王の振舞いを見て。
やっと 本来の姿をした恋人に再会できた瞬が、ハーデスに気取られぬよう 微かに口許を ほころばせる。

「さすがは瞬。ハーデスの扱いは お手のものだな」
それがハーデスに聞かれては まずい言葉だということは わかっていたので、紫龍は 声をひそめて 隣りに立つ星矢にだけ聞こえるように呟いた。
が、冥府の王が瞬の策に まんまと嵌められたことをハーデスに気付かせまいとする紫龍の配慮は、全く無用のものだった。
彼が声を ひそませるまでもなく――人間に戻った氷河が、瞬の浴室を聞き苦しい怒号で満たし、紫龍の呟きを明後日の方向に吹き飛ばしてくれたのだ。

「ハーデス! 俺をアヒルに戻せっ! 人間なんかに戻ったら、瞬が俺を風呂場に入れてくれなくなるじゃないかっ」
「そんなことができるか、この ど助平!」
「あんな素晴らしい夢のような体験をさせておいて、今更 元に戻すとは、残酷がすぎるとは思わんのかっ。貴様には 哀れみの心というものがないのか!」
「たとえ持っていたとしても、それを 余が そなたのために使うことはない」
「なんだとっ。この悪魔めっ」
「余は悪魔ではない。冥府の王だ!」
氷河のそれは、ハーデスを“賢く”しないための芝居なのか、それとも 氷河は全く本気で そんなことを がなり立てているのか。
ただの一瞬も ためらうことなく命を預けられるほど固い信頼で結ばれた仲間である星矢と紫龍にも、氷河の真意はわからなかった。

「氷河、泣かないで。そんな、泣くようなことじゃないでしょう」
「じゃ……じゃあ、この姿でも、俺は おまえと一緒に風呂に入っていいか?」
「それはだめ。氷河、お風呂場で何をするかわからないんだもの」
瞬に比べれば格段に単純にできているはずの氷河の真意も わからないのである。
人間の姿に戻った自分を嘆く氷河を慰め、だが あっさりと彼の希望を打ち砕いてみせる瞬の本当の心が、星矢と紫龍に わかるはずもなかった。
とはいえ――瞬の真意はわからない星矢と紫龍にも、瞬が嘘をついていないことだけは わかっていたのである。
そして、氷河と瞬のやりとりを聞いた(もしかしなくても馬鹿な)ハーデスが、この結末に大いに満足したらしいことも。

「実に 良い気味だ。キグナス、そなた これに懲りて、余の瞬に汚らわしい目を向けることは 金輪際 せぬように。余はしばらく寝る」
瞬の巧みな策略によって 留飲が下がった(溜飲を下げられた)ハーデスが、満悦のていで、その意識を瞬の浴室から消し去っていく。
完全にハーデスの目と意識が地上世界から消え去ったと確信できるだけの時間が経ってから、瞬は 初めて その肩から力を抜いたのだった。

これで、すべては元の通り。
氷河を 遣り込めることができたと信じているハーデスは、当分は地上にやってくることはないだろう。
地上世界は――瞬の浴室は、ついに従前の平和と平穏を取り戻したのである。






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