それから1週間後、星の子学園の有志と 隣りの区にある養護施設の有志との間で、ミニサッカーの親善試合が催されることになった。 試合会場は、星の子学園のグラウンド。 その話を聞いた瞬が、『両チームの選手と応援団の お昼のお弁当は僕が用意するよ』と言い出した時、星矢は その申し出を諸手を挙げて歓迎したのである。 瞬の気持ちを確かめることが最大の目的で、合コンの成功自体は二の次三の次だったとはいえ、合コンの雰囲気をぶち壊すような男を 合コンメンバーに推薦したことで、星矢が 合コンの幹事だった美穂の顔を潰すことになったのは紛れもない事実。 瞬の申し出は、美穂の機嫌を取り結ぶのに大いに役立ちそうな、星矢にとっては 実に有難い申し出だったのだ。 試合当日、瞬は4時起きして城戸邸の厨房に立ち、たった一人で約40人分の お弁当を準備してくれた。 サッカーの試合自体は、22 対 20 という サッカーのゲームのそれとも思えないスコアで星の子学園チームは敗北を喫したのだが、たくさんゴールを決めることができたので、子供たちは皆 楽しそうだった。 そして、そんなふうに楽しい気分のまま、いよいよ嬉し恥ずかし おべんとタイム。 ――のはずだったのだが。 星の子学園のグラウンドの脇に敷かれたレジャーシートの上に広げられた瞬の弁当を見るなり、星の子学園の子供たちのテンションは だだ下がり――否、全く逆の意味で 上がりまくってしまったのである。 言うなれば それは、失望が大きすぎて――期待と現実のギャップが大きすぎて、子供たちを興奮状態にした――と いっていい状況だった。 「えーっ、何だよ、これーっ! 瞬にーちゃんなら、うんと可愛い おべんと作ってきてくれると期待してたのにー !! 」 子供たちの失望も、ゆえなきことではなかっただろう。 瞬が用意した お弁当は、海苔も巻かれていない白いおにぎり。 申し訳程度に漬け物が添えられているだけの、実に素っ気ない代物だったのだ。 「空腹は最上の調味料だよ。食べてみて」 瞬の言う通り、グラウンドを力の限り走り回った直後で空腹ではあった子供たちが、しぶしぶ 瞬の作ったおにぎりを手に取る。 そして、皆が一斉に一口。 途端に、それまで騒がしく瞬の用意した弁当への不満を口にしていた子供たちは、しんと静まりかえってしまった。 その静けさを訝りつつ 瞬の握った おにぎりを食した養護施設の職員たちも、子供たちと同じように異様なほど静かになる。 「星矢たちも どうぞ」 つい先刻まで、秋の高い空にまで届けと言わんばかりの大歓声が響いていたグラウンド。 そこに今は死のような静寂だけがある。 皆の作り出す静けさが不気味で、星矢は――さすがの星矢も――瞬の握った おにぎりを食すことを躊躇してしまったのである。 城戸邸には専任の栄養士や調理師がいて、瞬の仲間たちは 瞬の料理の腕前が どれほどのものなのかを知らなかった。 白米を握っただけの おにぎりに、料理の腕も何もあったものではない――のかもしれないが、1年365日 常に騒がしい星の子学園の腕白坊主たちを ここまで静かな子供たちに変えてしまう瞬のおにぎり。 星矢は どうしても不安――むしろ恐怖――を感じないわけにはいかなかったのである。 そんな星矢に先んじて 瞬のおにぎりに口をつけたのは、ある意味では 星矢より無茶で無謀で猪突猛進、暴虎馮河を地でいく某白鳥座の聖闘士だった。 一口食べて、星の子学園の腕白坊主たち同様、氷河もまた沈黙を作る。 氷河が星の子学園の面々と違っていたのは、瞬のおにぎりを一口食した彼が すぐに我にかえり、 「うまい……」 と呟いたことだった。 星矢が、それでもまだ瞬のおにぎりに口をつけるのを ためらったまま、氷河の評価に物言いをつける。 「あー、おまえはさ、おまえは瞬が作ったもんなら、失敗して焦げた目玉焼きでもうまいんだろ。けど 俺は、おまえと違って 普通の味覚を持ってる普通の人間なんだよ!」 「瞬が作ったものなら、どんなに不味い料理でも食える自信はあるが、これは本当にうまいんだ」 「でも、ただの握り飯だろ。しかも具なし。料理じゃないぜ」 氷河の言葉と瞬のおにぎりに不審感いっぱいで、だが 食しても死ぬことはなさそうだと考え、やっと星矢が瞬のおにぎりに かぶりつく。 結果は、星の子学園の腕白坊主や氷河たちと ほぼ同じだった。 まず沈黙。 そして、 「うめーっ!」 と雄叫びをあげる。 その大声に、瞬は さすがに驚いたようだった。 「梅干しは使ってないよ」 「梅じゃなく、美味い! 瞬、うめーよ、これ、ものすごく! コンビニのおにぎりなんて、話にならないくらい美味い!」 瞬のおにぎりは おいしかったのだ。 それも、尋常でなく。 星矢の言葉を聞いて、瞬が ほっとしたように安堵の息を洩らす。 「よかった。ほら、こないだ、星矢が おにぎりなんて料理じゃないって言ってたでしょう。だから、僕、おにぎりっていうものが どんなにおいしいものなのか、星矢に知ってほしかったんだ」 星の子学園の いつもは騒がしい子供たちが 異様なほど静かだったのは、瞬が作ったおにぎりが おいしすぎるから――だったのだ。 何にでも がっつく子供たちが――質より量、味より 空腹を満たすことの方が重要で肝心な子供たちが――瞬のおにぎりの味に感激し、しみじみと味わっていたからだったのである。 美穂たち 両養護施設の職員一同も同様。 瞬の おにぎりは、それほどまでに おいしかった。 「悪い。悪かった。俺、おにぎりへの認識を全面的に改める。でも、なんでこんなに美味いんだ? 外で食うからかな? 瞬、これ、飯の中に、塩以外の何かを混ぜてあんのか?」 「外で食べるから おいしいっていうのはあると思うけど、何も混ぜてないよ。ほんとに ご飯と お塩だけ」 「でも、まじで美味いぞ、これ。間違いなく、俺が これまでの人生で食べた中で最高のおにぎりだ」 「うむ。実に美味い。塩の他に何も使っていないというのなら、これはやはり愛の問題なのか。おまえは、これを4時起きして作ったんだろう?」 「うん。ありがとう、紫龍」 おそらくアテナの聖闘士たちの中では最も美味を食べ慣れて 舌が肥えているだろう紫龍の称賛に、瞬は嬉しそうな顔になった。 このおにぎりの美味さは一大事とばかりに、星矢が瞬に気負い込んで尋ねる。 「なんで、こんなに美味いのか、教えろよ。こんなおにぎり食っちまったら、俺、この先、他のおにぎりが食えなくなっちまうだろ。美味さの秘密を聞いとかなきゃ」 「そんなオーバーな……」 「いいから教えろって」 オーバーでも何でもなく、それは星矢の心からの願いにして、切実な問題だった。 星矢は、本当に この先 どんなおにぎりも食べられそうになかったのだ。 瞬のおにぎりの美味の理由を知っておかなければ、理屈理性で自分を納得させておかなければ、舌と手が 他のおにぎりを確実に拒否する。 そんな星矢に気圧された様子で、瞬が 奇跡のおにぎりの美味の訳を説明し始める。 「おにぎりを作るのって、こつがあるんだよ。ご飯を硬めに炊くのは常識として、他にもいろいろ。そのこつを守れば、星矢にも おいしいおにぎりが握れるよ」 「ご飯を硬めに炊くってのが、おにぎりの常識なんだ。へー、知らなかった」 「……」 星矢の感心振りに、瞬が少し気の抜けた顔になる。 星矢の言葉は、どういう聞き方をしても、生まれて この方一度もおにぎりを握ったことのない人間のそれだった。 「おにぎりを作る時の ご飯は硬め、握るのは ご飯が熱いうち――っていうのは常識だと思うけど……」 「どうせ 俺は非常識だよ! でも、ご飯が熱かったら、やけどしないか?」 「注意しないとね。そこはちゃんと注意して、食べてくれる人の喜ぶ顔を思い浮かべて、多少 熱いのは我慢するの。ご飯のデンプンの質は 温度によって糊化したり老化したりするから、熱さに耐えるのは、おにぎり作りの必須の試練だよ」 「やっぱ、愛の問題なのかー」 「それも少しあるかも」 瞬は小さく頷いて、奇跡のおにぎりの握り方のこつを語り出した。 「愛があるなら、あとは簡単だよ。おにぎりを作る時の鉄則は、とにかく ご飯の粒をつぶさないことなんだ。だから、なるべく軽く握るの。でも、あんまり軽く握ると、形を保てないから、そこは加減して。外側は、形を維持するために ぎりぎり必要なだけの力で握って、中はふんわりさせる。ご飯粒同士が くっついちゃわないように、なるべく多く空気を含むようにするの。おにぎりを握る時は、姿勢をよくしなきゃ駄目だよ。手にだけ力を込めるのは駄目。おにぎりって、身体全体で握るものなんだ。でないと、外側はしっかり、中は ふんわりのおにぎりは作れないから」 「ふえー おにぎり作りって、滅茶苦茶 奥が深いんだな。熱さに耐えながら、身体全体で握らなきゃならなくて、形を維持するためにぎりぎり必要な力を加減して?」 「そう。おにぎりを握る時は、微妙な力加減を考慮して、気を抜かず、力を込めすぎず。おにぎり作りって、割りと体力勝負の作業なんだよ」 「これは絶妙な力加減だ。味もいいが、食感が何ともいえない」 紫龍は、おにぎりの味と触感を確かめるように二口目を食べ、改めて感動の吐息を洩らした。 星矢が そんな紫龍に同感してみせる。 「うんうん。普通の おにぎりだと思って 一口 頬張ると、口の中で ほろほろっと飯粒が崩れて ほどけてくみたいなんだよな。ちゃんとおにぎりの形してるのに、中がこんなだなんて、すげー。ただのご飯が おにぎりになった途端、こんなに美味いものになるなんて、信じんねーぜ。ほんとに ほんとに美味い」 おにぎりの握り方のこつを聞いても、星矢は、自分が瞬のおにぎりと同じものを作れる気が まるでしなかった。 この奇跡を成し遂げられるのは、やはり瞬しかいないような気がする。 そう思いながら、星矢は 再び 瞬のおにぎりを食した。 口の中で ほどけていく一粒一粒のご飯の感触を じっくり味わっていると、心は ほとんど陶酔の域に達する。 食べ物の味を味わうということは こういうことなのだと、普段の彼なら――これまでの彼なら――考えもしなかっただろうことを、星矢は今 考えていた。 |