普段の5倍以上の時間をかけてやっと一個のおにぎりを食べ終えたところで、星矢は、氷河が 瞬の作った おにぎりを見詰めたまま、深刻な面持ちで黙り込んでいることに気付いたのである。 「おい、氷河。おまえ、今の、ちゃんと聞いてたのかよ」 星矢に肘で脇腹を突つかれて、氷河が はっと我にかえる。 夢の中から無理に引き戻された人間のそれのような目で、氷河は仲間たちの顔を見まわした。 「あ、ああ……すまん。瞬のおにぎりが美味すぎて、つい ぼうっとしていた。とても、この世のものとは思えない……」 「やだ。いくら何でも それは大袈裟だよ」 「いや、氷河の言うことは大袈裟でも何でもないだろう。これなら フレンチのシェフや日本料理の板前になる修行の方が、楽かもしれん。少なくとも俺は、どれほどの修行を積んでも こんなおにぎりを作れるようになる気がしないぞ。春麗も料理は上手くて、老師の得意技は『おかわり』だったが、おまえのおにぎりは『おかわり』を忘れるほど――いや、二口目を食べるのも忘れるほどの美味さだ」 「氷河、いっそ瞬を嫁さんにもらっちまえよ。そうすりゃ、好きな時に瞬に この世のものとも思えないおにぎりを作ってもらえて、そのたび 天国の気分を味わえるぞ」 「天国……? そうだ、あの世だ……」 「?」 氷河から、まるで噛み合っていない反応が返ってくる。 それも道理。 氷河は瞬のおにぎりを一口食べて その美味に驚き、二口目を食べることを忘れ――仲間たちの話を まるで聞いていなかったのだ。 この世のものとは思えない瞬のおにぎりのせいで、氷河の意識は、今 あの世にいたのである。 ただし、それは天国ではない。 氷河がいるのは地獄だった。 瞬の作るおにぎりが この世のものとは思えないほど美味であるという事実は、氷河には全く喜ばしいことではなかったのである。 これほどのおにぎりを作る瞬が、人生最高の味という一輝のおにぎり。 それは、瞬が握ったおにぎりより 更に美味なものであるに違いないのだ。 それを更に超えるおにぎりを作らなければ、瞬を恋する男は、瞬の心を手に入れることができないのである。 氷河が 今いる場所は地獄――地獄門の真正面だった。 『この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ』の銘文が刻まれた門の先に 長くのびた、険しい おにぎりの道――奇跡を超える奇跡に挑む道。 その道を、自分は極めることができるのか。 その あまりに遠く険しく厳しく思える道のりに、氷河の心は今 恐れおののいていたのである。 「瞬の心を射止めるためには、俺は これを超えるおにぎりを作らなければならないのか……」 瞬の奇跡のおにぎりを超える一輝のおにぎりを 更に超えるおにぎり。 おそらく黄金聖闘士の小宇宙をもってしても、もしかしたら神の小宇宙をもってしても――作ることができないかもしれない、奇跡のおにぎり。 氷河は、それが どんなおにぎりなのか、想像することもできなかった。 そんなものを作っている自分の姿を思い描くこともできない。 奇跡を超える、超奇跡のおにぎり。 それは あまりに遠いところにあり、その姿は あまりに茫漠としていた。 だが、諦めるわけにはいかないのである。 奇跡を超えるおにぎりを諦めることは、瞬を諦めること。 それは白鳥座の聖闘士が 自分の人生と幸福を諦めることと同義だった。 かくして。 その日 その時から、氷河のおにぎり修行が始まったのである。 愛があれば実現できない奇跡などない。 そう信じて。 |