牛車は身を忍ばせるのには好都合だが、進むのが のろくて いらいらする。
そういう理由で、宮中から瞬の宮にやってくる時、氷河は いつも馬に乗っていた。
馬は、貴族でも よほどのことがなければ乗らないし(乗りこなせないし)、ましてや 親王となったら触ったことがない者の方が多いだろう。
帝の皇子である氷河が馬を利用することに 眉をひそめる者も少なくはなかったが、瞬は馬上の氷河を見るのが好きだった。
騎馬姿はもちろん、素早く下馬する様も、氷河は とても颯爽としていると思う。
その姿を見ることは眼福で、乗ってきた馬を庭に放り出し、瞬のいる部屋の縁に駆けてくる氷河の性急さを嬉しく思う気持ちも、決して嘘ではない。
瞬は むしろ、その嬉しい気持ちを ひた隠して、
「氷河……こんな昼間から……一輝兄さんに知れたらどうするの」
と、氷河を たしなめなければならない自分が嫌だった。

「夜に出歩くと、宮中の者たちが あらぬことを勘繰るんだ」
歓迎の言葉をかけてくれない瞬に 不満そうに そう言ってから、氷河は、
「甥が叔父に会いに来て、何が悪い」
と、言葉を継いだ。
年上の甥の尤もな言い分に、年下の叔父が 切なく眉を曇らせる。
「悪くないから、氷河が僕に会いにきたことを、みんなが一輝兄さんに知らせてしまうの。氷河は一輝兄さんの宮に行っていない、年下の叔父の宮に行っていた――って、氷河を庇うつもりで、みんなは 兄さんに報告しちゃうんだよ」
先頃 太政大臣の位に就いた瞬の兄が、今生帝の第三皇子である氷河を目の仇にしていることは、宮中で知らぬ者とてない噂――もとい、事実だった。
そして、氷河が 人に恨まれることがあるなら、その理由は女のことに決まっている――というのが、宮中の者たちの一致した見解。
ゆえに氷河が 男子である叔父の許に通うことには問題はない――という結論に至っているのだ。
物語と現実を混同している宮中の者たちは。

「僕のところに来ると、氷河は 一輝兄さんの怒りを買う。氷河は今生帝の皇子で、東宮様に次ぐ地位にいるけど東宮じゃない。一輝兄さんは、太政大臣っていう臣下の身だけど、母親は先帝の娘で、そして 父親は あの准太政天皇だった人。気の弱い今生帝より、よほど覇気があって、発言力もあって、帝を言いなりにしている。親王である氷河を どうにかすることだって、一輝兄さんにはできるんだよ。わかってるくせに、どうして こんな――」
「帝か東宮か一輝自身あたりを調伏し 帝位簒奪を企てたと、ありもしない罪をでっちあげて、俺を宮廷から追放するくらいのことは、一輝なら やりかねないな」
「氷河……!」

どうして そんな恐ろしいことを、氷河は こともなげに言うのか――。
瞬が 苦しげに眉根を寄せる様を見て、氷河の胸が痛まなかったわけではない。
だが、氷河の胸の内では、『そんな様子すら 瞬は可愛らしい』と思う気持ちの方が はるかに強かった。
だから、叔父より分別がなくても許される甥の立場を利用して、氷河は 瞬に甘え、駄々をこねたくなるのだった。
「わかっていても、会いに来ないではいられないんだ。おまえは俺に帰れというのか」
言いながら、瞬の頬に右手で触れる。
まだ浅い春の外気のせいで冷たかった瞬の頬は、氷河の熱い手に触れられると、徐々に温かみを帯びてきた。
氷河の手の熱を奪っているのではない。
氷河に触れられることで、瞬は その身の内に熱を生むのだ。

瞬が『帰れ』と言えないことを、氷河は知っていた。
言えるわけがない。
氷河が宮中から出にくくなっているせいで、瞬は もう五日も 氷河に触れてもらえずにいたのだから。
氷河が 御簾を下ろし、瞬の白地の直衣のうしに手をかける。
瞬は何も言わず、身じろぎもしない。
もちろん、家の者を呼ぶようなこともしない。
氷河に 身に着けているものを一つずつ 剥ぎ取られていっても、瞬は ただ うっとりと氷河の目を見上げ 見詰めているだけだった。
父に抱きしめてもらったことも 母に抱きしめてもらったこともない瞬は、氷河の温もりに触れることが好きでたまらないのだ。

邪魔なものが すべて取り除かれ、肌と肌が直接 触れ合うようになると、瞬は もう待っているだけの大人しく淑やかな恋人ではいられなくなる。
氷河の背に、肩に、腕に、自身の腕を絡め、瞬は 自分から氷河に ぴったりと寄り添い、氷河を抱きしめてくる。
それは瞬の癖――治すことのできない瞬の癖で、おかげで 氷河は そのたび、腕を緩めるようにと 瞬を説得しなければならなくなるのだった。
瞬が、すぐに その説得に従ってくれた ためしはなかったが。
「少しでも 側にいたいの。少しでも、多く、長く、氷河と触れ合っていたいの」
それは幼い子供が親の保護を求める愛着行動に類するものなのかもしれなかった。
幼い子供ではない瞬は、その欲求を言葉にすることができ、実際に そうする。
幼い子供でないにもかかわらず、求めることが本能的であるがゆえに、しとねでの瞬は いつも、あどけなさと艶めかしさを同時に体現する不可思議な生き物だった。

「俺は おまえの肌に触れるだけで 昂ぶり燃えてくるが、おまえは そうじゃないだろう。おまえは子供のように 触れ合っていたがるばかりで――」
「それだけじゃ、駄目なの……?」
年下とはいえ、叔父が、涙ぐんで甥に問うてくる。
この先にあるものが何なのかを知っているはずなのに、瞬は 氷河と抱き合うたびに 氷河に同じことを尋ねてくるのだった。
氷河は、瞬が悲しまないように、少しずつ 少しだけ 絡んでくる瞬の腕や指を解いて、なんとか自分の手足の自由を手に入れなければならない。

「駄目というわけではないが……。だが、ここに こんなふうに触れられると、おまえは気持ちがいいんだろう? おまえがいつまでも 俺をきつく抱きしめていると、俺は もっといいところに触れてやれない」
「あっ……」
もう幼い子供ではない瞬は、氷河の言う通り、そこに そんなふうに触れられると 気持ちがいいのだ。
言葉と行為で その事実を突きつけられ、瞬は徐々に子供でいることを放棄する。
「もっと気持ちよくしてやるから、ちょっとだけ、この腕を外してくれ」
「あ……あ……」
離したくない。
離れたくない。
だが、もっと気持ちよくなりたい――。
瞬の子供の性の部分と 大人の性の部分が せめぎ合い、最後に勝つのは 常に大人の性の方だった。

氷河の言葉に従い、つらそうに、瞬が 氷河の背に押し当てていた腕を 床の打衣うちぎぬの上に落とす。
「ほんの しばらくの辛抱だ。おまえの身体を もう少し 熱くしたら、すぐに俺たちは一つになれる」
涙と熱に潤んだ瞳は 大人の性、打衣の上に放り出された心細げに細い腕は 子供の性。
その二つに責められて、瞬は苦しんでいた。
「その時、どんな気持ちになるかを思い出して、ちょっとだけ辛抱しろ」
氷河は そう言って、力なく投げ出された瞬の白い腕を なだめるのだが、その言葉に頷くのは 瞬の腕ではなく、瞬の身体の内の奥にある何かだった。
氷河が愛撫を深くする前に、瞬の身体は 内側から熱を生み出し、瞬の身体は 内側から身悶え始める。

「ああ……だめ、思い出すと つらいの。思い出したくない。早く そうなりたい」
「そうなるには どうしたらいいか、知ってるだろう?」
「知ってる……知ってる……でも……」
知ってはいるが、自分から身体を開くのは恥ずかしい。
瞬の そんな思いを承知の上で、しかし、氷河は 絶対に無理強いはしない。
悩み、つらさに耐え、最後には 恋人と一つになりたい気持ちが 羞恥を凌駕し、瞬が自分から 少しずつ身体を開き始めるのを、氷河は 辛抱強く(だが 楽しんで)待つのだ。

やがて、瞬の逡巡の時が終わる。
氷河は、その素直さを、瞬の唇に唇を重ねることで褒め、他の場所にも 直接 唇で触れ 褒めてやる。
歓喜に震える瞬の肌。
その やわらかさ、熱さ、潤い。
鋭敏になった瞬の五感。
冬の純白の処女雪のように清らかで、浅い春の微風のように優しい風情をしていながら、瞬は 恐ろしく官能的な生き物だった。

二人が一つになり始めると、瞬と瞬の唇と瞬の身体は もはや歓喜の声しかあげなくなる。
瞬は、肌で触れ合うことと同様に――もしかしたら それ以上に――肉で触れ合うことが好きで、しかも そのことに苦痛を感じないようだった。
痛みを感じていないはずはないのに、瞬時に その痛みを喜びに変えてしまう術を、瞬は知っている。
そうして、瞬の内奥は、腕よりも更に強い力と熱で、氷河に絡みつき、氷河を離すまいとするのだ。
昂ぶりが増し過ぎると、二人が二つに戻る時の到来が早まることを知っている瞬の身体は、無意識の内に、巧みに、一つになっている二人の身体を操る。
瞬の その技は、実に精妙なものだった。
が、その技を駆使するために、瞬は 相当の気力と体力を要するらしい。
瞬の鼓動が速まり、息が続かなくなり、このままでは死んでしまうと思わざるを得ないほどになると、瞬は 荒ぶり たぎりすぎた歓喜の海から 懸命に逃げ出そうとし始めるのだ。

氷河は、そんな時の瞬の姿を見て、源氏物語の女三宮と彼女が飼っていた猫のくだりを思い出すことがあった。
逃げ出せぬように結ばれていた紐が解け、思いがけず 自由を手に入れて駆け出した小さな白い猫。
今まで経験したことのない自由を少しでも多く手に入れようと 外に向かって駆け出したまではよかったが、自由というものは あまりに大きく、あまりに広く、あまりに深く、あまりに恐ろしく――結局 逃げ出した子猫は女三宮の手に戻り、女三宮自身も、紐でつながれ飼われている猫と大差ない自分の境遇に気付いて、その場に立ちすくむ――。
瞬が欲しているのは自由ではなく、人の温もり――愛という名の人の温もりだった。
最初は怯え、やがて『もっと欲しい、もっと欲しい』と手をのばし、掴み――そうして、両手で持ちきれなくなるほどの それを眼前に示されると、途端に 瞬は途方に暮れてしまうのだ。

瞬が途方に暮れた時、二人が進むべき道を示してやるのは氷河の役目になる。
愛と温もりで潤った瞬を、己れの律動で喘がせ、
「ああ……ああ……氷河、もう……!」
と 泣いてすがってくる瞬に、
「まだだ」
と 冷酷に告げる時の、勝利感にも似た 妙に誇らしい気持ち。
我ながら子供じみていると思うこともあったが、その得意の気持ちを味わうことができれば、氷河は、愛技の勝ち負けなどというものは もうどうでもいいと思うようになるのが常だった。
一つになってしまえば、二人は二人共が 恋の歓喜を手にした勝利者になり、二人は二人共が 恋の歓喜に征服された敗北者になるのだ。
そして、二人は離れることなく、共に同じところに行き着く。
その地は 勝利も敗北も存在しない地で、そこで二人を包むのは 安らぎと充足の思いのみ。
やがて、一つになっていた二人は 二人に戻り、二人は、二人に戻ったことで 一層、自分たちは離れ難い二人だと思うことになるのである。

二人は恋の絶頂にあり、そして 幸せだった。
その幸せは永劫に続くものだったろう。
この世界に生きている人間が、ただ二人だけであったならば。






【次頁】