「妻に横恋慕されている一輝の怒りは尤もだと、皆が俺を責めるし、俺が愛しているのは須磨の君ではなく おまえだと公言するわけにもいかないし――」
まだ身仕舞いを整える力を取り戻せずにいる様子の瞬の身体を水浅葱色のほうで覆い、自身は裸体にひとえだけを羽織って上体を起こした氷河は、瞬の手前、ほとほと困り果てたというていを装って、低く ぼやいてみせた。
『こうして おまえを抱いていられるのなら、そのために我が身が破滅しようと、一向に構わない』という本音を告げてしまうと、瞬は逆に、宮中で ひときわ ときめいていた親王に そんな言葉を吐かせ 窮地に追い込んでしまったのは 自分との恋のせいだと考え、その恋を望んだ自らを責めかねない。
氷河を欲しがる自分が醜く 浅ましいのだと自責し、悔悟し、その心と感情を殺して、己れの中に閉じこもってしまいかねない。
瞬を そんなふうにするくらいなら、二人で前向きに(?)現状に閉口していた方が ましだと、氷河は思っていた。

朝廷に絶大な権力を誇る――ある意味 帝より強大な力を持つ男――に睨まれようと、憎まれようと、それこそ 親王の身分を剥奪されようと、瞬と離れることはできない――この恋を思い切ることはできない。
そんなことになるくらいなら 死んだ方がまし、生きていても死んでいると同じ。
瞬との恋を貫くこと以外、氷河に選ぶことのできる道はなかった。
そういう思いでいたので、実は 氷河は、本当のところは 窮してもいなければ、迷ってもいなかったのである。
自分が瞬を愛し、一輝が弟を愛している限り、この問題が解決する時は永遠に来ないと、氷河は承知していたから。
ただ瞬のために――自分のことは すぐに諦めてしまうくせに、自分以外の人間のためになら懸命に足掻くことをする瞬のために――人並みに困った振りをしてみせているだけで、氷河の心は とうの昔に決まっていた。

そんな氷河の心に気付いているのか いないのか――やっと身体を動かせるだけの力が戻ってきたらしい瞬が、その身体を覆っている袍を引き寄せながら、ゆるゆると その上体を起こし、苦悩している(振りをしている)氷河の顔を見詰めてくる。
瞬は、心底から困惑している様子で、
「義姉上から、文が来たの」
と、氷河に告げてきた。
「なんて?」
窮し迷っている振りをしていた氷河の声が、ひどく疲れた響きの それになる。
その“疲れ”は、“振り”ではなかった。
氷河は実際に 瞬が口にした『義姉上』という言葉を聞いて、どっと疲れてしまったのだ。
氷河にとって 瞬の“義姉上”は、諸悪の根源、すべての元凶だったから。
事態が こんな ややこしいことになったのは、元はと言えば、今は一輝の妻となった 丹波の姫 改め 須磨の君が、公達同士の恋に理解がありすぎたせいなのだ。

都に戻ってから 事に及べばよかったのに、その短い時間を待ちきれず、よりにもよって一輝が妻のために用意した丹波の館で、氷河は瞬と初めての契りを結んだ。
そんなことになったのは、あの須磨の君が 異様なほど気の利いた女性で、彼女が、若い恋人同士が初めて結ばれるに ふさわしい雰囲気を作り、その場を盛り上げまくってくれたから。
整えられた膳に手をつけなかったら、その膳を整えてくれた人に失礼だろうと、氷河が思ってしまったから――思わされてしまったからだった。
自身の性急を棚に上げ、氷河は、その件に関しての責任のすべては須磨の君にあると決めつけていた。


「おまえの義姉君のことを とやかく言いたくはないが、須磨の君の愛読書は、『弘児聖教秘伝』だの『とりかえばや物語』あたりだぞ、絶対。賭けてもいい」
「源氏物語も読んでいるみたいだよ。義姉上は、義姉上の故郷である須磨に避難して、兄さんの怒りと 口さがない世間の興味が 薄れるのを待ってみたらどうかと、氷河に提案してみてって書いてきたんだ」
「光源氏の――あの糞爺の須磨流寓をなぞれというのか、この俺に!」
我知らず、氷河の口から 大きな怒声が洩れる。
瞬の宮に務めている女房たちの耳に届くことを恐れて、氷河は 慌てて口を閉ざした。

氷河は、源氏物語の光源氏と 瞬の義父でもある自分の祖父を、無意識のうちに 混同していた。
氷河の祖父である“光源氏もどき”は、光源氏と違って、謀反の疑いをかけられ流罪となることを回避するために 自ら都を去るという不遇を経験していなかった。
彼は その一生を、常に栄光の中で過ごした男だった。
その栄光の中で、好き勝手に女を食い散らかし、最後に その しっぺ返しのように正妻に裏切られ、その不義の子である瞬に 冷たく当たった。
“瞬を愛さなかった男”。
氷河には それだけで十分――自分の祖父を嫌う理由としては、氷河には その一事だけで十分だった。
とにかく 氷河は、瞬の義父である“光源氏もどき”が嫌いで、そんな氷河にとっては、“光源氏”は“光源氏もどきのもどき”。
“光源氏”は“光源氏もどき”に連なるもの。
たとえ それが最善の策なのだとしても、そんな男の真似事などして たまるものかと、氷河は憤ったのである。

が、すぐに思い直し、
「おまえが一緒に来てくれるなら」
と、瞬に水を向けてみる。
「それじゃあ、兄さんの怒りが増すばかりだよ」
「なら、嫌だ」
答えは考えるまでもない。
さっさと結論を口にしてから、氷河は、文箱から取り出したはいいが 氷河に手渡せずに瞬が手にしたままでいた須磨の君の文を受け取り、目を通してみた。
そして、氷河は、
「あの姫はーっ!」
と、激昂することになったのである。

播磨の国主である須磨の君の父は、娘の養育に、有り余る財を惜しまなかったらしい。
須磨の君の文は、実に見事な手蹟で記されていた。
要約すれば、
『恋は障害があった方が燃え上がるもの。離れて暮らしていれば、源氏の君と紫の上のように、氷河と瞬ちゃんの恋心は一層深まることでしょう。氷河が流寓の地で 明石の上を見付けて浮気するのが、瞬ちゃんは心配かしら? でも、一輝の怒りを静めるためには、氷河が反省している振りをしてみせるくらいのことはしなきゃならないわよ。氷河が一時的に須磨に隠遁すれば、一輝も留飲を下げ、世間も納得するでしょう。すべては恋のためよ。須磨の館は、私が責任をもって、凄まじく荒れ果てた みすぼらしい荒屋(あばらや)を用意します。そこで 都にいる瞬ちゃんを恋しがった氷河は、吹きすさぶ嵐の声より悲痛な声を須磨の浜に響き渡らせるの。素敵でしょ。うっとりするでしょ。きっと、そうなさいな』

本文も ふざけていたが、更に ふざけたことに、須磨の君からの文には 歌が一首 添えられていた。
『身を尽くし 恋うるしるしに ここまでも 巡り逢いける 縁は深しな――身を尽くして恋する証として ここまでやってきて、巡り会ったあなたとの縁は本当に深いものです――』
長い別れの時が 終わって再会成った際に、光源氏が女に歌った歌。
須磨の君は、絶対に(瞬の恋人への)嫌がらせのために、この歌を添えたのだ。
氷河は、そう考えないわけにはいかなかった。
光源氏が この歌を送った相手は、都で光源氏の帰りを待ち続けていた紫の上ではなく、隠遁先で出会った浮気相手の明石の君の方だったのだから。
氷河は 怒りのあまり、須磨の君からの文を、部屋の隅に寄せていた屏風に叩きつけてしまったのである。
須磨の君の このふざけた提案が 事態を治めるための最善の策なのかもしれないと思えることが、氷河の怒りに拍車をかけていた。

「おまえは、それで平気なのか……!」
本当は 須磨の君を怒鳴りつけたいところなのだが、それが叶わず、氷河は瞬に向かって低く呻いた。
少しの間をおいて、ためらうように、瞬から 力ない答えが返ってくる。
「……平気じゃない」
それは、ひどく 小さく細い声でできた答えで――だが、瞬の その言葉は、激昂する氷河の心を落ち着かせるだけの力を持っていたのである。
以前のように『仕方がない』と言わなくなっただけ、ささやかだが瞬も進歩している――瞬も変わってきているのだ。
ならば、自分も少しは大人になってみせなくては。
煮えくりかえる腸を懸命に抑え、氷河は瞬に頷いた。

「わかった。須磨に行こう。ただし、条件がある。俺が須磨に発ったら、おまえが俺を追いかけてくるんだ」
「でも、それじゃ、兄さんがますます……」
「源氏物語でも、光源氏の親友の頭中将が、光源氏を訪ねて須磨に行くじゃないか。あの物語と同じだと思わせれば、一輝はともかく、宮中の奴等は納得する。そして、俺たちは そのまま、須磨で二人で暮らすんだ」
光源氏は――源氏物語を記した紫式部は――宮廷で栄耀栄華を極めることが、人生の成功であり 人生の勝利だという価値観の持ち主だった。
だから光源氏は、うら寂しい須磨の地で 都に帰ることを切望するのだ。

だが、氷河にとって、人生の成功、人生の勝利とは、何よりもまず、愛する人と共にあることだった。
その地が都だろうが、須磨の地だろうが 構わない。
蝦夷の国でも鬼界ヶ島でも、氷河は一向に構わなかった。






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