須磨など、牛車なら ともかく、馬で駆ければ 都から半日で着く土地である。 たった それだけの隔たりが 人の何を変えるのかと、氷河は たかをくくっていた。 住まう土地が どこであろうと、暮らす館が どんな様子をしていようと、そんなことは 人の心にどんな変化も及ぼさない――と。 しかし、氷河は、須磨の君が用意してくれた須磨の浜近くの小さな館に、数人の供回りを伴って到着した時、その館の趣のありすぎる風情に 腹の底から唸り声をあげてしまったのである。 須磨の君は、その言葉通り、すさまじく荒れ果てた みすぼらしい荒屋を、氷河のために用意してくれていた。 庭は広大である。 なにしろ、須磨の浜 すべてが、その荒屋の庭なのだから――氷河のための館には 塀も門もなかったから。 浅い春のこととて、浜に人の姿はなく、漁師たちの威勢のいい声の代わりに、灰色の海が不気味な海鳴りを響かせている。 館の内には、御簾も屏風も敷物もない すすけた板張りの部屋が 幾つかあるばかり。 生まれた時から 華やかな宮中で、鮮やかな色の五衣や唐衣をまとった女官たちに囲まれて暮らしてきた氷河の目には、そこは全く色のない世界のように映ったのである。 「こちらは、17、8年前に、播磨の国主殿が 重い病を得た親族の療養のために建てられた館だとか。その方が亡くなったあとは住まう者とてなく 打ち捨てられていたのだそうです」 氷河が都から伴ってきた下働きの男が 気味悪そうに教えてくれたが、氷河は他のことに気を取られ、彼の言葉をまともに聞いてもいなかった。 帝になりたいなどという野心はもちろん、一生を贅沢の中で安穏と暮らしたいという人並みの望みを抱いたこともない。 欲しいものはいつも、心から愛する人、心から愛せる人だけだった。 だから、自分は いずれは こんな館での暮らしにも慣れてしまうだろうと、氷河は思っていた。 だが、瞬はどうだろう? 宮中に並ぶ者とてない権勢を誇る“光源氏もどき”一族の長の庇護を受け、その心情はともかく、物理的な欠乏は 一日たりとも経験したことのない瞬は。 瞬も、おそらく、慣れてくれるだろう。 それは間違いない。 瞬は、その恋人以上に欲がなく、もともと出家願望の強い人間だったのだ。 瞬なら、何もない 貧しい館での暮らしを、逆に喜びさえするかもしれない。 氷河にとっての問題は、瞬が こんな粗末な館での暮らしに慣れ 受け入れる状況に、自分が耐えられるかどうかということだった。 自分には野心も人並みの欲もないと思っていたのに――氷河は、瞬に不自由な暮らしを強いる自分というものに耐えられそうになかったのである。 馬鹿な男の見栄だということは 自分でもわかっていた。 二人で暮らせるのなら他には何も望まないと、常々 思い、口にもしてきた、その願い――欲。 官位を求めて、あるいは昇殿が許される位階を求めて、あるいは公卿と呼ばれる地位を求めて、日々 汲々としている貴族たちを 浅ましい限りと、氷河は これまで ずっと見下してきた。 だが、彼等が もし、愛する者を綺麗な館に住まわせ 上等の着物を着せてやりたいと願って、その浅ましい行為をしているというのなら――。 氷河は、今なら、彼等の気持ちがわかった。 わかりすぎるほど、よく わかった。 須磨の君が用意してくれた、凄まじく荒れ果てた みすぼらしい館で、氷河は初めて、『自分は今、窮地に立っているのだ』と思うことになったのである。 |