星矢と紫龍が須磨の館にやってきたのは、氷河が都を出てから ひと月が経った頃だった。 「須磨の君から、凄まじく うらぶれた館だと知らせは受けていたんだが、聞きしに勝る凄まじさだ」 「浮気せず、清らかにしてたか? 瞬でなくて悪かったな」 そう言いながら、板張りの間に入ってきた瞬の異母兄弟――必然的に、氷河の叔父たち――を見やり、氷河は無表情に首を横に振った。 都からの客人というのが瞬でなくてよかった――と、氷河は胸を撫で下ろしていたのだ。 「瞬は、今、動けずにいるんだ。見兼ねて、俺たちが 代わりに来た」 瞬が“動かず”にいるのなら、それは幸いなことだと思う。 だが、“動けず”にいるとは どういうことなのか。 氷河が問うと、紫龍が 言いにくそうに事情を説明してくれたのである。 それは 決して 聞いて楽しい話ではなかった。 「一輝が瞬に妻を持たせようとしている。左大臣家の姫、瞬より三つ年上。美貌だが、気位の高さで評判の姫君だ」 「なんだとっ!」 『瞬が ここに来てしまったら どうすべきか』と それを案じ、かといって『こちらには来るな』と使いを出すわけにもいかず、対応を思い悩んでばかりいた氷河は、紫龍の その言葉を聞いて、己れの迂闊に臍を噛むことになったのである。 彼は、この世界には自分と瞬しかいないと思い込み、瞬の兄が何らかの行動を起こすことなど考えてもいなかったのだ。 邪魔な男が弟の側からいなくなった今が好機とばかりに 一輝が画策を始めることは、須磨の海のイワナゴにさえ想像の易いことだというのに。 「しゅ……瞬は、それで どうしているんだ! まさか、大人しく一輝の言いなりになっているわけじゃないだろうな!」 星矢と紫龍は、氷河が幼い頃から年下の叔父に執着し続けていたことを知っている。 改めて報告してもいなかったが、宮中で噂の一輝、氷河、須磨の君の三角関係が、実は 瞬を交えた四角関係なのだということを、彼等は最初から察していただろう。 頭ごなしの氷河の怒声に、星矢は、『俺を怒鳴っても どうにもならない』と言いたげな顔になった。 「瞬が一輝に逆らえるわけないだろ。瞬の後見人は一輝しかいない。実の母は出家。父は亡く、実の父親が誰なのかも わからない。祖父である先帝も出家して長い。兄に見捨てられたら、瞬は生きていられないんだから」 「なぜ一輝しかいないなんてことになるんだ! 俺がいるじゃないか! そもそも一輝は 瞬を構いすぎなんだ!」 生まれて初めて、自分が窮地に立たされていることを自覚し、だが その解決策を思いつけなくて いらいらしていた今の氷河には、一輝の横暴は幸いなものだったかもしれない。 おかげで 氷河は、この ひと月の間、溜めに溜めていた鬱憤を 一輝への不快として外部に放出することができたのだから。 思い切り大声をあげてから、氷河は それまで彼が考えたことのなかった ある一つの謎に 考えを及ばせることになったのである。 すなわち、『なぜ、一輝は ああも瞬を構うのか』ということに。 瞬と一輝は確かに同母の兄弟だが、父は違う。 兄弟は 准太政天皇だった男の息子たちということになっているが、瞬は母親の不義によって生まれた子で、二人をつないでいるのは生母の血のみ。 とはいえ、一輝が 彼の母の血を有難がっているとは、氷河には 到底 思うことができなかった。 無論、生母の高貴の血ゆえ、“光源氏もどき”が儲けた多くの異母兄たちを差し置いて、今の一輝の地位と権力はある。 それは紛う方なき事実である。 だが、一輝の才は父から受け継いだもの、一輝は 母からは何も受け継いでいない。 不義を行なうような女を、実の母親といえど、一輝が慕うわけもない。 自分の罪を省みることなく、罪のすべては不義の子である瞬にあるとでもいうかのように、兄弟の母は瞬に冷たかった。 そんな女が、冷酷な夫の実子である一輝に優しかったとは思えないし、もし優しくしていたとしても、それは彼女自身のためだったに違いない。 一輝が母を嫌い、侮るのは当然のことである。 その母の子である瞬を、一輝は なぜ これほど気に掛けるのだろう――? これまで 氷河は、瞬が人に愛されるのは、瞬自身が持つ価値によるもので、至極自然なことだと思っていた。 ゆえに、氷河は、瞬を溺愛する一輝の振舞いを奇異に感じたことはなかった。 だが、改めて考えてみると、それは実に奇妙なことなのだ。 瞬は、一輝の嫌いな母親の不義の子で、実父が誰なのかもわからず、瞬自身には何の力もない。 瞬は、一輝がいるから 自分の宮を持つことができている。 瞬は、一輝がいるから 従四位の位階も受けている。 瞬は、一輝がいなければ、一輝が気に掛けていなければ、おそらく力のある後見のない無位無官の者として落魄していくしかない身の上なのだ。 一輝が いつ、瞬が父を同じくする弟ではないと気付いたのかを、氷河は知らなかった。 瞬の母の不義の噂は 瞬が生まれた時から巷間に取沙汰されていたのだから、かなり早いうちに、一輝は二人が真の兄弟ではないことを知っていただろう。 にもかかわらず、瞬が瞬の宮を持つ際には、本当の兄でもそこまではしないだろうと思えるほどの援助をし、一応 独立を果たした男子である瞬に、自分の妻の輿入れの準備をさえ任せているのだ。 瞬自身には、どんな力も どんな利用価値もないというのに。 「瞬が姫なら、あの美しさには とんでもない利用価値があるぞ。皇后だろうが 東宮妃だろうが、一輝の後押しがなくても、瞬なら 思いのままだろう。だが、瞬は男子だ。なのに 一輝は なぜ、何の力もない瞬を あれほど気に掛けるんだ!」 「え? いや、そりゃあ、ずっと正真正銘の兄弟と信じていたんだし、ともかく同母の兄弟には違いないんだから」 「うむ。一輝は ああ見えても、情の篤い男だ」 星矢と紫龍が何か言っていたが、氷河は もちろん彼等の言葉など まるで聞いていなかった。 彼は、基本的に、自分の見たいものだけを見、自分の聞きたいことだけを聞く男なのだ。 「そういえば、須磨の君も瞬に似ていた。そういうことだったんだ……」 「そういうことって、どういうことだよ」 「一輝の奴、俺を こんなところに追い払って、俺が都を留守にしているうちに、瞬を自分のものにするつもりなんだ!」 氷河は、それが言いたいことだから言ったわけではなかったろうが――否、氷河は やはり 自分の言いたいことだったから、そんなことを口にしたのだったろう。 氷河は、自分の恋の障害になるものを悪党、悪事にしたかったのだ。 氷河は ここで、叔父に恋する甥こそが異常なのだとか、弟と甥の恋を妨げようとする瞬の兄の振舞いの方が常識的で正しくて一般的なのだとか、そんなことを考えるような男ではなかった。 「氷河、おまえ、なに言ってんだ。おまえは 一輝の――朝廷の命令じゃなく、自分の意思で ここに来たんだろ」 氷河よりは常識というものを わきまえている星矢は、呆れた顔で 氷河に自制を促したのだが、それで自制するようなら、その男は氷河ではない。 「俺は帰る! 都へ――瞬の許へ! 俺が都から離れた 辺鄙なところで 鬱々としているうちにも、瞬が一輝の毒牙に……!」 氷河は、一度 そうと決めたら、もはや周囲は見ず、人の意見も聞かない男だった。 館の僕従たちに、 「荷物をまとめて、あとから帰ってこい!」 と怒鳴って命令すると、氷河は、あっけにとられている星矢と紫龍をすら その場に残し、彼自身は身ひとつで馬上の人となってしまっていた。 |