義父のように、愛していない人を妻にするようなことはできない。 そんなことをして、母のように不幸な女性を作りたくはない。 そして、氷河を裏切ることもできない。 だが、兄を裏切って 氷河を追っていくこともできない――。 すべての道を ふさがれた瞬が選んだのは、俗世を捨てること――出家することだった。 すべての人の立場と誇りを守ろうとしたら、その方法は、人の世から“瞬”という厄介な存在を消し去ること以外にない。 もともと そうするつもりだったのだ。 氷河との恋という、思いがけず美しい夢を見せられて、しばし その夢の甘美さに溺れてしまっただけで。 氷河は怒るかもしれないが、俗世を捨てて出家した者に、彼は いつまでも思いをかけてはいないだろう――。 その決意をした瞬が、以前から親交のあった清凉寺の上人を館に招いたのは、氷河が須磨に発って ひと月が過ぎた頃だった。 かまびすしい都を逃れ、二人の出自も身分も知らぬ素朴な人々の中に紛れて ひっそりと暮らす――。 それは夢の中で見た夢にすぎなかったのだと、瞬は諦めがついていた。 諦めがついていなかったのは むしろ、出家して数十年、上人と崇められるようにまでなっていた清凉寺の老僧の方だった。 「お考え直しなさい。瞬殿は、出家するには若すぎます。出家するには美しすぎる。瞬殿が出家されることを お嘆きになる方は 数多くいらっしゃいましょうが、それを喜ばれる方など、この都には ただの一人もおりますまいよ」 瞬の出家の望みを、上人は なかなか叶えようとしなかった。 瞬が準備した黒い裳付衣を見るのも嫌だというかのように脇に押しやり、上人は、出家を思いとどまるよう、こんこんと瞬を諭し続ける。 今の瞬の歳より ずっと幼い時に出家した者のそれとも思えぬ理屈で、上人が延々と自分を説得し続ける理由を瞬が知ったのは、上人が瞬の館に来て一辰刻が過ぎた頃。酉四つになろうという時だった。 瞬の館に、一輝がやってきたのだ。 どうやら上人は、瞬からの依頼を事前に一輝に知らせていたらしい。 「兄君と よくよく話し合われなさいませ」 上人は、瞬の決意は必ず翻るものと信じている顔で そう言い、瞬の部屋から庭に面した簀子縁に退いてしまったのである。 眉を吊り上げている兄の前で、瞬は気まずげに瞼を伏せた。 「出家などと、馬鹿なことを考えるのはやめろ! なぜ おまえは そんなふうに兄を困らせるんだ。兄の選んだ姫が気に入らないのなら、別の姫を選んでやる。もっと身分が高くて、教養もあり、慎み深い姫を――」 「そういうことではないんです」 「では、どういうことだ。まさか、あの馬鹿親王に操を立てようというのではあるまいな!」 「……」 険しい口調で責めてくる兄に、瞬は、『そうだ』とも『そうではない』とも答えることができなかったのである。 出家の理由――それが何だったのか、もはや瞬は思い出せなくなってしまっていた。 否、瞬は 思い出せなくなっていたのではなかった。 瞬は、その理由を口にしたくなかったのだ。 『兄さんのため』『氷河のため』『左大臣家の姫のため』だとは。 『僕自身のためではない』とは。 「もう、こうするしかないんです……」 覇気のない声で呟いた瞬に 怒りを抑えかねたように、一輝が弟の手を掴む。 「瞬! 兄の言うことがきけないのか!」 一輝が弟の身体に手をかけ、ひときわ大きな怒声を響かせた、まさに その時が、氷河がちょうど瞬の部屋の簀子縁に取りついた時と同じだったのは、神仏の計らいだったのか、悪ふざけだったのか。 「一輝っ! 貴様、俺の瞬に何をする気だーっ !! 」 簀子縁に退いていた上人が押し留める間もあらばこそ。 埃まみれの狩衣姿の氷河は、その場で 一輝の冠を叩き落とすや、瞬の兄と取っ組み合いの大喧嘩を始めてしまったのである。 思いがけない男の登場に 一瞬 ひるんだ一輝も、それが何者なのかを見極めると、即座に応戦開始。 一輝は一輝で、氷河に対して 腹に据えかねるものを極限まで抱え込んでいたらしかった。 半分 下ろされていた御簾が庭に飛び、帳を垂らした御帳台が 帳ごと倒れ、その弾みで屏風が引き裂かれる。 「なんか……華麗な王朝絵巻のはずが……」 氷河を追って、なんとか ここまで辿り着いた星矢と紫龍は、鶏合わせの鶏もかくやとばかりに見苦しい闘いを繰り広げている 当代随一の貴公子たちの狂気の様に、それでなくても疲れていた心身の疲労を更に募らせることになったのである。 「俺が瞬を手籠めにするだとっ。貴様と一緒にするなーっ!」 「お偉い大臣ぶったって、貴様の正体は わかってるんだ! やたらと瞬ばかり可愛がりやがって、須磨の君が瞬に似ているという話を聞いた時に、俺は貴様の異常性に気付くべきだったんだ!」 「甥が叔父に懸想するのは異常ではないと言い張るつもりか、貴様っ」 「あ……あの……兄さん……氷河……」 「瞬、危ないから、縁の方に避難していろ。こんな、貴族とは名ばかりの肉体派同士の喧嘩は、どちらかが死ぬまで終わるまい」 「そんな……上人様のいらっしゃるところで、冗談でも そんなこと……」 もちろん冗談に決まっていると、紫龍の いたく真面目な口調の避難勧告を聞いて、瞬は思った――思おうとした。 しかし、戯れと思ってしまうには、兄と氷河の喧嘩は あまりに激しく、二人は隠しようもない殺気を帯びていて――瞬は、二人の いさかいが終わるのを 大人しく待っていることなど 到底できそうになかったのである。 直衣に狩衣――二人は 身体を動かすには これ以上ないほど不適切なものを その身にまとっているというのに、二人の拳や蹴りは目にも止まらぬほど素早く、鋭い。 身に着けているもののせいで 二人の攻撃が相手の身体に どれほどの打撃を与えているのかは見極めにくいのだが、ともかく二人は無傷ではないようだった。 「これは これは。今をときめく太政大臣と 噂の親王様が、興福寺や延暦寺の荒法師など 足元にも及ばぬ剛勇振り。宮中への参内が許されている貴族の青年など、誰も彼も軟弱な足弱ばかりと思っておりましたのに、なんと頼もしい」 清凉寺の上人が、のんびりした口調で そう言って 感嘆の息を洩らす。 「上人様……」 「瞬殿。ご心配には及びませぬよ。なに、どちらが亡くなったとしても、拙僧が 責任をもって 懇ろに弔って差し上げましょう」 高い智徳を世に認められ上人号を許されている高僧が口にする その言葉は、はたして 冗談なのか そうではないのか。 もはや その判断もつかなくなった瞬の瞳から、懸命に こらえていた涙が一粒 零れ落ちた時だった。 「上人様。その時には、立派な講堂が一つ建つほどの銭貨と絹を寄進いたしますわ」 桜色の狩衣をまとった瞬が そう言って颯爽と登場し、死闘を繰り広げている(らしい)二人の男を一喝してのけたのは。 |