「殿! 殿が今 蹴破った屏風は、この私が宋の国から取り寄せて 瞬ちゃんに贈った、徽宗の名品。一生をかけても修繕していただきますよ! 氷河! あの光源氏でさえ 二年半も耐えた流寓、たった ひと月で耐えられなくなりましたか!」
髪の長い瞬――としか見えない その人が誰なのか、氷河は すぐには わからなかったのである。
「義姉上!」
瞬の その悲鳴で、
「須磨の君…… !? 」
初めて、それと気付く。
おそらく、瞬より先に それが自分の妻だと気付いていただろう一輝は、振り上げた拳を宙に浮かせたまま、声も出せずに 顔を引きつらせていた。
肉親以外の男の前に顔を さらすようなことがあってはならない貴族の女人が、あろうことか男子の服を着て義弟の館に乗り込んでくる。
それだけなら まだしも、太政大臣である夫と 天皇の皇子である氷河を大喝してのける。
そんな須磨の君の暴挙を叱責することもせず、ただ 顔を強張らせているだけなのだから、一輝は よほど 妻の尻に敷かれている――妻を愛しているのだろう――と、氷河は思った。

大人しくなった二頭の鶏――二匹の狂犬というべきか――をさっさと見捨て、髪の長い瞬が 簀子縁に避難させられていた 本物の瞬の前に膝をつく。
嫋やかに凛々しい桜色の瞬と、清らかで優しい淡藤色の瞬。
自分と瞬の一対ほど美しい一対は この世にないと固く信じていた氷河の自信を、二人の瞬は 見事に打ち砕いてくれた。
男装した須磨の君が、瞬にだけ甘い一輝同様、瞬には 気遣わしげな眼差しを手渡す。
須磨の君は、彼女の夫と親王を その視界の外に追い出して、瞬の手を取り、切なげな目と声で、
「瞬ちゃん、がっかりしないでね」
と、彼女の義弟に告げた。

「え……?」
「瞬ちゃんには言うなと、一輝には口止めされていたのだけれど、一輝や氷河が この為体ていたらくでは、頼りにならないから……。瞬ちゃんの本当の父親は、都の公達でも、高貴な皇子でもない、身分の低い受領の息子です」
瞬の兄や恋人が頼りにならないことと、瞬の実父の間に どういう関係があるのか。
須磨の君の話は 飛躍が過ぎて、氷河には理解し難いものだった――瞬にも、おそらく。
瞬が義姉の言葉に 瞳を見開く。
「義姉上は、僕の本当の父が誰なのかを知っているの」
「……」
須磨の君が言葉をためらったのは一瞬。
その一瞬が過ぎると、須磨の君は瞬に頷き、一気に彼女の知っている事実を言ってのけた。

「瞬ちゃんの本当の父親は、私の兄よ。私とは母が違って、15も歳が離れていたのだけど。宮廷に官職を得て 都に上がった時、瞬ちゃんのお母様に恋をして、思いを遂げた。一度だけ。瞬ちゃんは私の甥です」
「……」
瞬が、突然 知らされた その事実に どんな言葉を発することも、どんな表情を作ることもせずにいたのは、大きすぎる驚きに支配され 何をすることもできなかったから――ではなかっただろう。
自分の驚きを後まわしにして、瞬は、知らされた事実から わかること――推測できること――を、懸命に考えていたのだ。
その事実が、自分の母、母の夫、兄、甥、宮中の者たち、須磨の君、実父の周囲の人たちに どんな感情を生むか、そして 実父はどういう心でいたのか――を。
瞬は自分の感情より先に、そういうことに思いを至らせる人間だった。
とはいえ、これまで何も知らされずにいた瞬に 察することのできる事柄は少なく――ただ、瞬の実父の恋が 須磨の君に どんなものをもたらしたのかということだけは、須磨の君自身の口から 瞬に伝えられることになった。

「従五位の田舎者だった父は播磨一国の受領、財は いくらでもあったし、兄は品があって美しい人だった。へたな都の公家たちなんかより、ずっと。須磨中の娘たちが――いいえ、播磨の国中の娘たちが憧れている、私の自慢の兄だったわ。私の父は、子供たちの教育には 金に糸目をつけなかったから――兄の漢文の才は、師である宋の留学僧も驚くほどで、25の歳に 検非違使の府生――書記として宮中に出仕することになったの。そこで 兄は、准太政天皇の妻となっていた内親王に会い、恋をした。内親王は 人妻の身でありながら 兄を弄び――内親王が 兄の思いを受け入れたのは、帝の娘である自分を顧みない夫への当てつけでしかなかったんでしょう。兄は、恋した人に自分が愛されていなかったことを知り――その上、当時の最高権力者――自分が恋した人の夫に憎まれ、心身共に打ちのめされて 須磨に戻ってきた。兄が儚くなったのは、帰郷して ふた月も経たない頃。私は、私から兄を奪った都の人たちを憎んだわ。みな冷たくて、誠意がない人たちだと。男の心を弄ぶ姫――帝の娘が それほど偉いのかと、私は……!」
「義姉上……」

その“男を弄ぶ帝の娘”が瞬の母だということを、須磨の君は 本気で忘れていたようだった。
須磨の君に、“瞬の母”を責める意図はなかっただろう。
もちろん、瞬を責めているつもりもなかった。
男の心を弄ぶどころか――瞬は、いつも、何にも、誰に対しても遠慮してばかりいて、“男を弄ぶ帝の娘”と血がつながっていることが信じられないほど、控えめで驕りのない人間。
須磨の君は 本当に、瞬と瞬の母が親子だということを忘れていたのだ。
ごく自然なことだと、氷河は思った。

「一輝は、5年ほど前、あなたの実の父親の消息を確かめるために須磨に来たの。そして、私と知り合って――でも、兄のことで 都の人間を信じられなくなっていた私は、一輝を5年も待たせた」
待つ価値があると思ったから、一輝は待ったのだ。
実際、須磨の君には その価値があったのだろう。
須磨の君が、その5年を申し訳なく思うことはない――というのが、氷河の考えだった。
その場にいる誰もが、氷河と同じ思いでいただろう。
そして、氷河と同じ驚きと得心を、誰もが胸中に抱いていたに違いない。
瞬と須磨の君が似ているのは当然。
二人は、血のつながった叔母と甥だったのだ。

「私は、私から兄を奪った都の人たちを憎むばかりで、瞬ちゃんに会うまで、兄のために苦しんでいる人がいるなんて、考えてもいなかった……。ごめんなさい」
須磨の君が、瞬を抱きしめる。
それは 実に美しい一対で――瞬を恋する者として、氷河の心は本当に複雑だったのである。
ふと横を見ると、自分が蹴破った屏風の前に趺坐している一輝も、実に複雑そうな目で 瞬と須磨の君を見詰めていた。
須磨の君の夫として、一輝も 氷河と同じ気持ちでいたのかもしれない。

「義姉上……。義姉上が お謝りになることなんて、何も――」
「瞬ちゃんは、私が守るわ。兄に代わって、私が命に代えても。私の父は、播磨の国司。都の三位四位の貴族ごときには足元にも及ばないほどの財力がある。私は瞬ちゃんに幸せになってほしい。出家なんてさせないわよ」
きっぱりと言い切って、須磨の君が その視線を彼女の夫の上に移す。
その視線を受けた一輝は慌てて、“須磨の君の夫”“太政大臣”“光源氏もどき一族の長”としての威厳で、我が身を装った。
そして、瞬の兄として、
「誰が何と言おうと、瞬は俺の最愛の弟だ。必ず幸せにしてやる。出家など許さん」
と断言する。

須磨の君は ともかく、一輝に後れをとる醜態を さらすわけにはいかない。
氷河は、わざと 瞬と一輝の間の空間に割り込んで、一輝の視線を遮り、
「何を言う。瞬は俺のただ一人の運命の人だぞ。俺が瞬を幸せにするんだ。出家などさせてたまるかっ!」
と、声を張り上げた。
紫龍と星矢が、子供じみた氷河の振舞いに 両肩をすくめる。
「一輝と氷河だけでも 十分に傍迷惑なのに、まさか一輝より氷河より暴走する第三の人物がいたとは」
「瞬。おまえ、のんびり出家なんか してられないぞ。おまえは、三頭の暴れ馬の世話をしなきゃならないんだから」
「まあ、第三の人物というのは誰のことかしら。一輝の妻は、今頃、一輝の宮で 白百合の花のように淑やかに 慎ましく 夫の帰りを待っているはずよ」

随分と口が達者な白百合の花に、紫龍と星矢は声を出さずに苦笑することしかできなかった。
一輝と氷河も、当然 彼等に倣うことになったのである。
ここで須磨の君に意見することなど、彼等には 思いもよらないことだったのだ。
その場で、瞬だけが、白百合の花のように淑やかに 慎ましく、その瞳を潤ませていた。

実の父には会ったこともなく、形の上での父には愛されなかった。
母も、自分を罪の子として見捨て、出家した。
だが――。
「僕は……どうして僕は、僕を愛してくれなかった人たちのことばかり思い煩って、僕を愛してくれている人たちのことを考えなかったんだろう。僕は いつだって、僕を愛してくれている人たちに囲まれていたのに……」
一粒二粒 零れ落ちた涙を拭ってから、瞬は 簀子縁に鎮座している清凉寺の上人の方に向き直り、老僧に頭を下げた。

「上人様。わざわざ いらしていただいたのに、申し訳ありません。僕は出家するのは やめることにします」
「それがよさそうじゃ。瞬殿、お幸せじゃの」
清凉寺の上人が 短い言葉で この騒動を総括してみせる。
「はい」
瞬は 迷いの消えた晴れやかな表情で、上人に頷いた。
“瞬”は幸せだったのだ。
瞬が 気付かずにいただけで、これまでも、いつも ずっと、本当は“瞬”は幸せな人間だったのだ。

綺麗に場を治めてくれた上人に、一輝が感謝の言葉を告げる。
「上人。ご足労の謝礼に、経蔵を新築できるほどの銭貨を、上人の御寺に寄進しよう。弟と氷河のことは内密に」
大臣おとどの北の方が 神功皇后のように 凛々しい女人だということも、拙僧は全く存じあげませぬ」
にこやかに そう答える上人の見事な対応を見て、その場にいた者たちは全員、上人の寺の一層の興隆を確信することになったのだった。


そうして。
したい放題の光源氏でさえ二年半を耐えた流寓を、僅か ひと月で切り上げて、氷河は都に帰ったのである。
すべては 元に戻り、結局、世は何も変わらなかった。
氷河は、以前同様、叔父に会う振りをして 瞬の許に通い続け、一輝は、氷河への嫌がらせを(瞬に出家されては困るので、ほどほどに)続けている。
須磨の君は、一輝と氷河の角突き合いを面白がって 二人を煽り、宮中の者たちも、四角関係を三角関係と誤解したまま、あいかわらず あれこれと かまびすしい。

何ごとも、綺麗に治まってしまわないのが 俗世というものなのだ。
そこで、人は 迷い、悩み、憂い、嘆く。
瞬もまた、その俗世で、迷い、悩み、憂い、嘆く。
だが、そんな俗世にあって、瞬は幸せだった。
瞬の迷いも 悩みも 憂いも 嘆きも、すべては人に愛され、人を愛するがゆえのものだったから。












【目次】