celebration

〜 汐見凍夜さんに捧ぐ 〜







「じゃんけんという、手の形で勝敗を決める約束事は知っているか」
「マーマに教えてもらったことがある」
「なら、話は早い」

鬼ごっこは、世界中 どこにでもあるゲーム。
まさか、その基本ルールを、鬼決めじゃんけんから教えてやらなければならない子共がいるとは。
その場にいる子供たちは、その時、生まれて初めて 世界の広さというものを実感していたのかもしれない。
実際には、いくつか類似のものはあるにしても、“じゃんけん”は日本で生まれたゲームであり、複数の子供による追いかけっこを“鬼ごっこ”と呼ぶのもまた 日本国だけのことなのであるが。

紫龍が そのルールを説明している相手は、つい2日前に 城戸邸に連れてこられたばかりの金髪の子供だった。
それまではロシアで母親と二人暮らし、船の事故で母親を失い、日本に来たばかり。
金色の髪と青い目の持ち主で、日本人の血もいくらかは入っているらしいが、見た目は立派なガイコクジンである。
名前は氷河。
大人しい人見知りには見えないが、やってきた時以来 ほとんど口をきかず、どの程度 日本語を解するのかもわからない。
何より、世界中の ありとあらゆる物、事、人を憎んでいるように鋭く冷たい瞳。
彼が この城戸邸にやってきた時から ずっと、城戸邸に集められた子供たちは皆、遅れてやってきた異質な姿の新参者を遠巻きに眺めていた。

「じゃんけんをして、負けた者が最初の鬼になる。鬼が決まったら、皆が逃げる。鬼は10数えてから、皆を追いかける。鬼が誰かを捕まえ 身体にタッチしたら、今度は 鬼に捕まった者が鬼になるんだ。それを延々と繰り返す。それが、この国における標準的な鬼ごっこのルールだ」
紫龍が この国の鬼ごっこのルールを氷河に説明することになったのは、滅多に自分の意見を口にしない瞬が その遊びをしようと提案し、ハプニングもサプライズもないサーキット・トレーニングに飽き飽きしていた星矢が、その提案に諸手を挙げて賛同したから。
瞬の提案への星矢の賛同理由が『サーキット・トレーニングに飽きた』ではなく、『新入りと親睦を深めつつ、その実力のほどを確認したい』というものだったから。
そして、新入りと親睦を深めたいからなのか、あるいは 彼の実力のほどを確認したいと思ったからなのかは定かではないが、他の子供たちも瞬の提案に賛成の意を示したからだった。

「単純なゲームだな。要するに、追いかけっこだろう。なぜ、鬼なんだ」
氷河は片言でない日本語も ちゃんと解するらしい。
日本の妖怪である鬼がどんなものであるのかも知っているらしい。
まず、その点に関して、紫龍は安堵した。
『なぜ鬼ごっこなのか』という疑問に関しては、紫龍のみならず、その場にいる子供たちの誰もが その答えを知らず、氷河の素朴な疑問に首をかしげることになったのであるが。
同時に、氷河の外見は“外国人”そのものだが、その外見に反して、それなりに 日本という国に親しんで育ってきた子供なのかもしれないと、紫龍と その場にいた子供たちは思ったのである。

「言われてみれば、鬼ごっこって、なんで鬼ごっこって言うんだろうな。鬼から逃げる鬼ごっこじゃなく、辰巳から逃げる辰巳ごっこでも いいのにさ」
星矢のジョークは笑えない。
聞かなかったことにして、紫龍は、氷河の方に向き直った。
「鬼のことを親と呼ぶ地方もあるらしいが、鬼でいいだろう。ここにいるのは皆――いや」
星矢のジョークは笑えないが、自分の真面目な説明は もっと笑えない。
そう考えて、紫龍は 自分が言いかけた言葉を、自分で濁したのである。

城戸邸に集められた子供たちには、親がない。
ほとんどの者が、親の顔さえ知らなかった。
“親に捕まえてもらう”などということはできないし、本当に そんなことになったら、連れ去られる先は死者の国である。
だが――物心ついた時には もう一人きりだった者たちより、ごく最近まで母と暮らしていられた氷河にこそ、これは つらい話なのかもしれない。
その時、紫龍は――その場にいた子供たちのほとんどが――母との思い出を持つ幸運で幸福な氷河に同情の念を抱いていた。

当の氷河は、その空気に気付いたのかどうか。
誰にも 氷河の真情を推し量ることはできなかった。
彼の青い瞳は、紫龍が言葉を濁したあとも それ以前と変わらず、世界中の ありとあらゆる物、事、人を憎んでいるように鋭く冷たいものだったから。

「まあ、ジョギングやサーキット・トレーニングより単調ではないし、脚力、瞬発力、敏捷さ、状況判断力を養うトレーニングにもなるから――そういう意味では、鬼ごっこは、身体能力、運動能力育成には最適のゲームといえるだろうな」
それは、ゲームの客観的な効能説明というより 辰巳への言い訳として用いられることの多い理屈だったのだが、厳然たる事実でもある。
その言い訳で、城戸邸に集められた子供たちは そのゲームに興じることを辰巳に許してもらうことができていた。

「それが普通の鬼ごっこのルールだが、ここでの鬼ごっこには特別ルールがあるんだ」
「特別ルール?」
「ああ。まず、このジムの中から出るのは反則。その代わり、ジムの中なら どこに逃げてもいいことになっているから、鬼から逃げる際には あちこちにある運動器具を上手く利用することだ。さすがに100人全員参加の鬼ごっこは無理だから、1ゲームは、参加者20人前後で行なう。時間は10分間の総入れ替え制。不参加の者たちはリング上で見学。それから、瞬は特別だ。瞬」
名を呼ばれて、瞬は、紫龍の隣りに立っていた兄の陰から、少しだけ顔を覗かせた。
瞬に一瞥をくれた氷河が、
「瞬は特別? この子は参加しないのか?」
と問うてくる。

「え? なんでだよ?」
氷河の疑念に 疑問文で応じたのは、ゲームのルール説明中の紫龍の後方で、早くもウォーミングアップに取りかかっていた星矢だった。
それは、星矢には 全く思いつかない疑念だったのである。
外国人は 日本人には思いつかないことを思いつく――と、星矢は かなり本気で呆れていた。
氷河の疑念には、だが、それなりの根拠があったらしい。
反問されることこそ意外――と思っている様子で、氷河が 自らの発言の根拠を口にする。
「女の子だし……昨日、泣いているのを見た。鬼に追いかけまわされたら、恐がるんじゃないかと思――」
「瞬は、俺の弟だ」

氷河の“それなりの根拠”を、それこそ鬼の形相で遮ったのは瞬の兄だった。
世界中の ありとあらゆる物、事、人を憎んでいるように鋭く冷たいものだった氷河の瞳から初めて、冷たい憎悪の色が完全に消える。
その色を消し去り、上書きしたのは驚嘆の色で――いったい何に驚いたのか、とにかく 氷河は驚いたようだった。
「一輝」
紫龍が瞬の兄の名を呼んで、鬼の形相の一輝の怒りを静めようとする。
瞬が女の子でないこと、瞬と一輝が血のつながった実の兄弟であること、城戸邸の鬼ごっこで 瞬が特別待遇を受けること。
城戸邸に起居する子供たちにとっては既知のことであり、常識でもある その事実を知らない者には、氷河の驚きや考え方は、極めて真っ当。ごく普通。
普通で真っ当な氷河のために、紫龍は、怒れる一輝を押しとどめ、城戸邸の常識とルールを氷河に教示する作業を続けたのである。

「瞬が泣くのは、対戦式の格闘技のトレーニングの時だけだ。鬼ごっこは大好きだし、むしろ天才」
「瞬が女の子みたいなのは 俺も否定しねーけどさ。瞬は 滅茶苦茶 すばしこいんだ。通常ルールで 瞬を捕まえられる奴なんて、まずいない。ここでの鬼ごっこは、制限時間の10分経過時点で鬼だった奴の負け、もし 瞬を捕まえられた奴がいたら、10分が過ぎてなくても、そいつが勝者――っていう決まりになってるんだ。総入れ替え制のゲームだけど、瞬は その全部に参加する。言ってみれば、瞬は 駆けっこやサッカーのゴールみたいなもんなんだよ」
「……」
何に驚いているのかは不明だが、紫龍と星矢の説明を聞いた氷河が、またしても驚いて、瞬を見詰める。
人見知りではないが控えめで、兄の陰に隠れてばかりいる瞬が、氷河に まじまじと見られても 怯える素振りを見せず、あくまで控えめではあったが、氷河に向かって にこりと笑ったようだった。
その様を見て、そういえば このゲームをしようと提案してきたのは瞬だったと、紫龍は今更ながらに その事実を思い出したのである。

「最初の鬼決めじゃんけんに、瞬は参加しない。星矢が言ったように、瞬はゴールだからな。鬼は 瞬以外の参加者の中から選ばれる。その鬼は、瞬を捕まえる意思があるなら、最初の待機時間の10を数えなくてもいいことになっているんだ」
「『1、2、3、4、5、6、7、8、9、10』の代わりに『ちゅうちゅうたこかいな』でOKだぜ」
「ちゅうちゅう……何?」
日本語を解し、日本の妖怪である鬼を知っている氷河にも、『ちゅうちゅうたこかいな』は初めて聞く言葉だったらしい。
「『ちゅうちゅうたこかいな』。日本語で『2、4、6、8、10』のことだよ」
星矢に説明されても――むしろ、説明されたからこそ?――氷河は奇妙に顔を歪ませた。

「『1、2、3、4、5、6、7、8、9、10』を『ちゅうちゅうたこかいな』にすれば、最初の鬼が動きを封じられている待機時間が、理屈上、半分で済む。実際には、もっと短縮されるが――瞬が強すぎるから、ハンデを課すわけだ。最初のカウントを『ちゅうちゅうたこかいな』で済ませた者は、最初の5歩は必ず 瞬のいる方に向かって駆け出さなければならない。ちゃんと10数えた時は、その限りにあらず。もちろん、ちゃんと10数えて 瞬を油断させ、瞬を捕まえてもいい。鬼以外の子は、鬼が10数えるか、『ちゅうちゅうたこかいな』を唱えるかによって、自分が逃げ切るための作戦を練る。『1、2、3、4、5、6、7、8、9、10』なら、鬼は瞬がいる方には来ないから 瞬の近くに陣取り、『ちゅうちゅうたこかいな』なら、鬼は瞬のいる方に向かうから 瞬から離れた場所にいるというのが、常套作戦だな。単純どころか、結構難しいぞ、ここの鬼ごっこは」

「瞬を捕まえられれば、そいつの勝ちだから、みんなが瞬を捕まえようとするんだけど、大抵は諦めるんだよな。瞬は、本気出してる猫より 兎より 犬より敏捷だから」
そう告げる星矢は、もちろん 瞬を捕まえる気満々だった。
瞬を捕まえずに勝っても、城戸邸では尊敬されないのだ。
城戸邸の鬼ごっこにおいて、瞬は月桂冠――勝利の栄光の具現だった。


「では、最初のゲームを開始するぞ。適当に近くの者とじゃんけんをして、勝った者は参加不参加を決定しろ。第1ラウンド不参加の者はリングに上がれ。リング下にいる者が20人を切った時点で、ゲーム開始だ」
紫龍が、ゲームの開始を宣言する。
城戸邸の鬼ごっこは、最初の鬼決めじゃんけんから、極めて大掛かりなゲームだった。
最初のじゃんけん時点で、皆が作戦を練り始めている。
氷河が城戸邸に来て、最初の鬼ごっこ。
新参者の力のほどを確かめるのが、皆の第一の目的。
城戸邸の子供たちは、暗黙の了解で 皆で示し合わせ、最初の鬼を氷河にした。






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