聖域の上には、明るく爽やかに晴れ渡った青空。
地上には、心地よく 澄み切った空気。
不吉の影も邪悪の兆しも 一切存在せず、幸福と平和と喜びだけがある、今 この時、この場所。
かつて 死をすら覚悟し、必死の思いで駆けあがった十二宮の階段を、今 青銅聖闘士たちは、あの時とは打って変わって穏やかに自若とした足取りで ゆっくりと上っていた。

何年間も――打ち続く戦いのため、本格的な修復作業に取りかかることができず、崩れるに任せていた聖なる場所。
本来は、愛と平和の象徴として 美しい威容を誇るべき白亜の宮たち。
アテナを奉じる青銅聖闘士たちと黄金聖闘士たちの戦いのために 半ば以上崩れていた十二宮は、その後、冥界軍の侵入を許したことで、更に荒廃した。
冥界軍との聖戦が終わってからも、聖域への敵の侵入を許すことはなかったが、戦いの日々は続いた。
その聖域が――崩れ荒れ果てていた聖域が――今は再建が成り、以前の威厳ある美しい佇まいを取り戻している。
明日の儀式を晴れがましいものにするために、聖域の石工や大工、彫像家等の職人たちが、それこそ寝る間も惜しんで、すべての宮と 各宮に付随する すべての施設、及び 宮と宮を結ぶ すべての道を修復してくれたのだ。
明日、かつて この宮を駆け登った青銅聖闘士たちは、アテナから正式に この聖域を守護する黄金聖闘士に叙せられ、黄金聖衣を賜与されることになっていた。

「今 思えば、瞬が鬼ごっこが滅茶苦茶 強かったのって、瞬の身体能力や運動神経が 並み外れてたからだったんだよな。なのに、なんで俺たち、瞬は聖闘士になることはおろか、修行地から生きて帰ることすら覚束ないかもしれないなんて、真面目に心配してたんだか。ちゅうちゅうたこかいなのハンデありでも、あの鬼ごっこで、たった1回だけでも瞬を捕まえたことのある奴って、俺たちくらいのものだったのに」
あの頃、一度でも その偉業を成し遂げたことのある子供は、現在の天馬座の青銅聖闘士、龍座の青銅聖闘士、白鳥座の青銅聖闘士と、相変わらず どこにいるのか わからない鳳凰座の青銅聖闘士だけだった。
今 この長い階段を上っている四人と 瞬の兄だけが、その偉業の当事者だったのだ。

栴檀(せんだん)は双葉より――いや、そうだな」
『栴檀は双葉より芳し』の例えを口にしかけたのだろう紫龍が、その言葉を途中で途切らせる。
あの頃 城戸邸に集められていた幼い子供たちは 誰もが一生懸命だった。
皆が懸命に生きていた。
明日 アテナから黄金聖衣を下賜される五人以外の子供たちも皆、誰もが懸命に己れの生を生きていたのである。
聖闘士になること、黄金聖闘士になることは、なりたいと望んでなれなかった者たちの思いと時間を その肩に担うことに他ならない。
望みを叶えた者たちは、自らの望みを叶えたことに驕らず、むしろ謙虚になるべきなのだ。


その運命はどうあれ、現在の境遇が いかなるものであれ、そして、誰であっても、すべての人間の“現在”は、これまでの時間と経験あってのもの。
明日の日を前に、彼等の思いが幼い頃に飛翔するのは、自然なことなのかもしれなかった。
幼い頃に城戸邸で出会った、その出会いが、今の彼等を作ったのである。
あの出会いがなければ――個々人の才能と努力だけでは――今の彼等は存在しなかった。
そして、おそらく 明日からの彼等も存在しないだろう。

「俺は瞬を捕まえられたことがなかった」
さきほどからずっと だんまりを決め込んでいた氷河が ふいに、初めて 口を開く。
白羊宮から 上がってきた石の階段。
金牛宮を過ぎ、今 彼等の目の前にあるのは 双児宮。
氷河の低い呟きに、星矢は眉根を寄せた。
「んなことないだろ。おまえ、みんなより遅れて城戸邸に来て、最初の鬼ごっこで、瞬を捕まえるっていう快挙を成し遂げたじゃん。しかも『ちゅうちゅうたこかいな』じゃなく、ちゃんと10数えてさ。俺、あれで おまえに一目置くようになったんだぜ。みんな、すげーって びっくりしたんだよな」
明日 射手座の黄金聖闘士になる男は、皆で鬼ごっこをしていた頃と まるで口調が変わっていない。
黄金聖闘士になっても、星矢は ずっと この調子なのだろうかと、彼の仲間たちは案じ、だが 星矢の口調が黄金聖闘士らしい威厳あるものに変わってしまったら、それは星矢ではないと、彼等は それぞれの胸の内で思い直した。
威厳ある口調など、星矢でなくても、求められては困る。

「その、ちゅうちゅうなんとかは、言いにくかったんだ。初めて聞いた言葉だったし、意味不明。その上、真顔で言うには、あまりに響きが滑稽だった」
「響きが滑稽――って、あんな踊り 踊る奴が、んなこと気にすんのかよ!」
星矢の突っ込みを、氷河は未来の黄金聖闘士らしく(?)クールに無視した。
それこそ卑怯と言わんばかりに、星矢が顔を歪める。
「俺が瞬を捕まえられたのは、最初の1回だけだ。その後、俺は1度も瞬を捕まえることができなかった」
「そうだったっけ? なんか、最初の快挙のインパクトが強くて、そのあとのことなんて、俺、全然 憶えてねーや」
「おまえが憶えていても いなくても、事実は そうだったんだ」
今の氷河にとって、その“事実”は、懐かしい思い出なのか、それとも 忘れられない無念なのか。
この頃 とみに“クール”を装う術に長けてきた氷河は、その真意を仲間たちに読ませなかった。
それでも、氷河のクールは 所詮は“振り”でしかないということを、氷河の仲間たちは知っていたが。

「瞬を捕まえるのは難しかったからなー。俺なんか、瞬以外の奴を捕まえて鬼でなくなること自体が負けを認めることみたいな気がして癪だったから、意地で瞬を捕まえようとして 瞬を追いかけまわしてたんだけど、そうしてるうちに、他の誰かにタッチしちまうことが多くてさー」
心まで幼い日に戻ってしまったかのように、星矢が心底から悔しそうに言う。
今でも癪でならないと思っているような目を星矢に向けられ、瞬は困ったように肩をすくめた。
さすがに、今になって当時の恨み言をぶつけられても、瞬には対処の仕様がなかったのである。
まさか ここで『ごめんなさい』と謝るわけにもいかない。

巨蟹宮を過ぎると、獅子宮が見えてくる。
壮絶な戦いも 悲しい死もあった、かつての日。
今はもう、青銅聖闘士たちの歩みを妨げるものはない。

「どうして俺は 最初の時にしか――最初の時だけ おまえを捕まえることができたのか、ずっと考えていた。俺が皆と違う姿をしていたから、最初は恐くて逃げられなくて、二度目からは全力で逃げるようになったからだったのかとか」
それは、瞬には あまりにも思いがけない言葉で――瞬は すぐに左右に首を振った。
「そんなんじゃないよ。僕は最初に氷河を見た時から ずっと、いつだって、氷河は綺麗だと思ってた」
「おまえに綺麗と言われてもな」
それは どういう意味なのかと問いかけて、瞬は、直前で その問いを口にすることをやめたのである。
どういう意味なのかを説明されても あまり楽しいことにはなりそうにないと、瞬は これまでの様々な場面での経験から知っていた。
この話題は、うやむやにしておくのが無難な話題なのだ。

「捕まえられなくて……捕まえられないことで、俺がどれほど 悔しい思いをしたか」
「おまえ、絶対に、『ちゅうちゅうたこかいな』を言わなかったよな。『ちゅうちゅうたこかいな』なら、10数え終わるのに2秒足らずで済むのに、毎回 必ず『1、2、3、4』って数え始めるから、意地を張るのも大概にしろよって、俺、呆れてた」
昔話をしているうちに、星矢の中には 徐々に当時の記憶が鮮明に蘇ってきたらしい。
これまでは そんなことを思い出している余裕もないほど、戦いの日々が続いていたのだと思うと、今日という日の平和と穏やかさが、青銅聖闘士たちの胸に不可思議な感懐を生む。

「おまえが外見で人を差別するような人間ではないとわかってからは、俺に 何か――弱点というか、よくない癖でもあって、それで捕まえられないのかと考えた。それこそ、紫龍の龍の右拳のような変な癖があって、それを見透かされているせいで、俺は おまえを捕まえられないのかと思ったんだ」
「俺は、その癖は治したぞ」
紫龍が、龍の逆鱗を突かれたような仏頂面になって、脇から口を挟んでくる。
紫龍は なにしろ、その癖のせいで、聖闘士になって最初の戦いで 星矢に敗北を喫しているのだ。
星矢との戦い自体は悪い思い出ではないが、既に克服した己れの悪癖を あげつらわれるのは、あまり愉快なことではない。
が、氷河は、仲間のクレームをクールに無視した。
そのせいで、紫龍の仏頂面が ますます歪みを増す。

「一度は簡単に捕まえられたのに、なぜ それ以降は捕まえられないのか、その訳を聞き出そうとして、おまえに近付いていくと、おまえは俺から逃げていった。いつも。何度も」
「それは……」
「逃げられ続けて――俺は おまえに嫌われているのかと思った」
「そんなふうに思っていたの……」
初めて知らされた その事実に しおれて――瞬は顔を俯かせたのである。
今も そう思っているということはないだろうが、過ぎた日のことでも、それは 知らされて喜べるようなことではなかったから。

「ずっと気に掛かっていていたんだ。聖闘士になって再会してから、ギャラクシアンウォーズで、紫龍と星矢の対戦を見て、俺にも妙な癖があるのなら知っておきたいと思って、懲りずに訊こうとしたんだが、おまえは俺を避け続けた」
「氷河! おまえ、俺に恨みでもあるのか!」
「まあ、まあ、まあ」
明日には 聖闘士の善悪を判断する要の役割を担う天秤座の黄金聖闘士になるというのに、またしても 未熟だった頃の悪癖に言及されてしまった紫龍を気遣って(?)、星矢が 場を和ませにかかる。
「氷河。おまえ、それで、ずっと瞬を追いかけてたのかよ? あの頃、俺、てっきり おまえは瞬に気があるんだと思ってたぜ。瞬は、ほら、やたらと綺麗になって帰ってきたから。ま、氷河のアプローチにもかかわらず、瞬は逃げてばかりいたし、こりゃ、氷河の片思いで終わるんだろーなーって、俺、おまえに同情してたんだ」
「あの頃は、一輝のこととか、いろいろあったからな」

散々 かつての悪癖について言い募られても、片思いの氷河の立場を配慮したフォローを入れるあたり、紫龍は確かに大人というものになっていた――かもしれない。
続けて紫龍が口にした言葉は、フォローとも気配りとも取れるが、嫌味や皮肉にも取れる、実に微妙なものだったが。
「瞬が氷河を嫌っていたということはないだろう。十二宮では、散々 瞬に迷惑をかけて、氷河は幾度も瞬に命を救われていたし」
もし それが命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間への思い遣りから出た言葉なのだとしても、紫龍の思い遣りは 立派に白鳥座の青銅聖闘士への意趣返しになっている。
紫龍のフォローに(?)、氷河は苦笑した。
未熟だったのは 紫龍だけではなく――あの頃は、誰もが必死で、そして未熟だったのだ。
未熟だった頃の自らの失態を 苦笑で済ませることができるようになるほどの時間が、青銅聖闘士たちの上を通り過ぎていった。
そして、その果てに、今という時がある。






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