「氷河に変な癖なんかないよ」
その誤解だけは解いておかなければならないと考えた瞬が、氷河に告げ、
「ただ馬鹿なだけで?」
氷河が、苦笑を浮かべたまま、応じる。
否、瞬のそれは 苦笑ではなかった。
苦笑ではなくなり、切ない微笑になっていた。

「氷河……」
「俺は馬鹿なガキで……馬鹿なガキだったから、わからなかった。俺は、おまえも俺と同じ子供だと思っていたから。俺は、本当に 救いようのないガキで――ガキってのは、人の心も考えも、自分のレベルででしか判断できないものなんだ。ガキだったから――俺は おまえに嫌われているのだと、だから俺は おまえに避けられているのだと、本気で思っていた」
「そんなこと ないよ……」
氷河の声と言葉は 自嘲気味。
瞬の声と言葉は 小さく弱々しく――とても 明日には黄金聖闘士になる者のそれとは思えないほど、頼りないものだった。
氷河が、瞬に頷く。

「天秤宮で、おまえが俺を命をかけて救ってくれた時、そうでなかったことに気付いた。やっと わかった」
空が青い。
今、地上は平和である。
アテナの聖闘士が戦うべき敵がいないという意味で。
だが、アテナの聖闘士たちが戦う敵がいなければ、アテナの聖闘士たちの心も平和で平穏であるとは限らない。

「おまえは わざと捕まってくれたんだな。一目で 皆と違うとわかる姿、皆には後から遅れて合流。おまけに、あの頃の俺は、ただ一人の肉親を亡くして投げ遣りになり、神経をぴりぴりさせて 人を寄せ付けようとせず――皆に遠巻きにされていた。当然だ。あの頃の俺には、俺だって近付きたくない。おまえは、そんな俺が 皆の中に溶け込めるように、俺が皆に 一目置かれるように、わざと俺に捕まってくれたんだ」
「……」
瞬が沈黙を作り、
「あの時、鬼ごっこをしようと言い出したのは瞬だった。……瞬らしいな」
紫龍が、低い声で呟くように言う。
氷河は、自身を嘲るように 長い溜め息を洩らした。

「呆れたことに、俺は 聖闘士になってからも しばらく そうだったことに気付かずにいたんだ。天秤宮で――あの時 おまえの心に触れて 初めて気付いた。あんな幼い頃に既に、それだけ心のレベルに差があったんだ。俺はずっと、俺のレベルでしか、ものを考えられなかった。俺のレベルが低すぎて、恥ずかしくて、俺は おまえを追いかけられなくなった」
「僕、氷河に避けられているのかと――」
瞬の声が小さく頼りないのは、言いかけた言葉を途切らせてしまうのは、そんな昔のことで 今更 仲間を責めるようなことはしたくないからなのだろう。

「一度目は、確かに 氷河が みんなの中に溶け込めるように、わざと捕まったけど、それからは……」
言いかけた言葉を、瞬は再び途切らせ、
「ううん。昔のことだし……僕、本当のことを言ったら、氷河のプライドを傷付けることになるだろうから、氷河には 永遠に 言わないでいようと思ったんだ」
と、言い直した。
「それで避けられ、逃げられ続ける方が よっぽど……いや」
氷河も同じように言いかけた言葉を途中でやめ、
「十二宮、アスガルド、海界、冥界――共に戦って、おまえは俺を嫌っていないと気付いた。そもそも おまえは人を嫌うということをしない人間だ」
違う言葉を口にする。

「もし、おまえが俺を避けたり逃げたりしていたら、それは俺のためだ。俺のためだったんだ」
「嫌いなはずないよ。氷河はいつだって、僕の憧れの人だった……」
「憧れ〜っ !? なんだよ、それ」
星矢が聖域の空の下に巣頓狂な声を響かせたのは、瞬の告げた言葉が意外で得心できないものだったからというより、氷河と瞬のやりとりが妙に歯切れが悪く、焦れったく感じられるものだったから――だったろう。

『人を傷付けるのは嫌いだ』と言って、戦いの覚悟を決めるまでに やたらと時間がかかっていた瞬。
そんな瞬とは対照的に、ろくに戦況の確認をせず、感情と気分で戦いを始めてしまうことの多かった氷河。
少年と呼ばれる年頃には そんなふうだった二人も、戦いの経験を積むうちに少しずつ変わっていった。
瞬は、戦いが始まる前に その覚悟を決めるように。
氷河は、戦いの最中にでも 冷静に状況の判断ができるように。
それを 人は『大人になった』と言うのかもしれないが、今日の二人は――今の二人は――少年の頃の二人とも、大人になってからの二人とも違う。
何かが いつもの二人ではなく感じられて、星矢は そんな二人のやりとりを聞いていることに、奇妙な居心地の悪さを感じるようになっていたのだ。

「おまえが憧れていたのは 俺自身ではなく――おまえは、母の思い出を持っていて、亡くなった人に固執できる俺の境遇に憧れていたんだろう」
責めるようにではなく、かといって 嬉しそうにでもなく、抑揚のない声で 氷河が告げる。
瞬は 氷河の顔を見上げ、見詰め、そして また瞼を伏せた。
「それだけじゃないよ。それだけじゃない……」
小さな声で もどかしげに、視線を下に落としたままで瞬は呟き、続く言葉を口にしない。

その段になって 星矢は、氷河と瞬の会話の歯切れが悪いのは、この場に第三者がいるせいなのではないかと思い始めたのである。
第三者。つまり、邪魔者が。
「紫龍。もしかして、俺たち、ここにいない方がいいんじゃないのか」
小声で、もう一人の邪魔者の意見を確認する。
もう一人の邪魔者の答えは、
「しかし、目的地が同じだ。ここで俺たちだけ離脱するのは不自然すぎる」
という、全く現況の打破には役立たないもの。
「いったい どうなるのか、この成り行きに興味はあるんだけどさあ……」
興味はあるのだ。
これからも共に命をかけた戦いを戦い続ける仲間として、二人の このやりとりが どういう場所に落ち着くのかを知っておかなければならないとも思う。
だが――。

氷河と瞬は、ついに、二人して黙り込んでしまった。
そんな二人と共に歩いていることが、星矢は――もしかすると 紫龍も――気まずいこと この上なかったのである。






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