かくして、氷河の雪辱戦は、十二宮 第七の宮・天秤宮で行われることになった。
星矢と紫龍は宮の入口脇で、審判役。
鬼であるところの氷河が、宮の入口正面で数を数え始める。
星矢が あれほど言ったのに、氷河は『ちゅうちゅうたこかいな』を言わなかった。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10」

氷河が数を数え始めると、瞬は、宮の入り口から最も遠い場所ではなく 宮の中央に跳び、そこで鬼の動向を窺いつつ身構えた。
これでは、数を数え終わった氷河が 瞬のいる場所に向かって跳躍しても、その次に瞬が どちらの方向に跳ぶのかを、氷河は全く判断できない。
瞬が、鬼のいる入口から最も距離のある宮の最奥で氷河が動き出すのを待つなら、瞬の次の移動先は ある程度 絞れる――その場合、少なくとも瞬は後方に跳べない――のに。
最初の布陣が これでは氷河の雪辱は成らないだろうと、最初の数秒間で、星矢と紫龍には この勝負の勝敗が見えてしまったような気がしたのである。
氷河は いったい どういう作戦に出るのか。
そもそも氷河に作戦などというものがあるのか――。

星矢と紫龍が固唾を呑んで、未来の黄金聖闘士二人の勝負を見守る中。
本気で瞬を捕まえる気があるのか ないのか、既定の数を数え終わっても、氷河は跳躍しなかった。
跳躍しないどころか。
10を数え終わっても、氷河は、数を数えていた場所から 一歩も動こうとしなかった。
宮の正面入口に立ったまま――宮の中央で緊張して身構えている瞬に向かって、氷河は、
「瞬!」
と、その名を呼んだ。
今は巨大な氷の棺もなく 遮るもののない宮の中に、氷河の声が響く。

「瞬、好きだ」
さほど大きな声ではない。
むしろ、それは、音量も抑揚も感情すらも抑えた声だった。
だが、障害物のない広い閉鎖空間で、それは驚くほど よく通る。
「子供の頃から好きだった」
10を数えた その場所から、氷河は一歩も動かない。
同様に、瞬も動かない。
想定外の氷河の作戦に、星矢と紫龍は我知らず 息を呑み、やがて二人は なぜか その胸中で数を数え始めていた。

1、2、3、4、5、6、7、8、9、10。
星矢と紫龍が 10を数え終わっても、瞬と氷河は動かない。
次の動きを待ちきれず、星矢が再び 10を数え始めようとした時だった。
長い時を隔てて 行われることになった懐かしい遊戯に、ついに動きがあったのは。

動いたのは、瞬の方だった。
瞬の瞳には、微かに困惑の色が たたえられている。
だが、瞬は歩みを止めなかった。
急ぐこともしなかったが。
ゆっくりと、瞬は 氷河の方に歩いてきた。
腕を のばせば手が届くほどの距離まで来て、その足を止める。
瞬の心を確かめるように、氷河が瞬の瞳を見おろし、見詰め――最後に一歩だけ前に出て、氷河は瞬の身体を抱きしめた。
抱きしめて、
「捕まえた」
と、氷河が低く呟く。
「やっと捕まえた」
低い声だったが、氷河のそれには万感がこもっていた。

聖闘士になる前、幼い子供の頃からずっと――ずっと、捕まえようとして捕まえられず、逃げられることだけを繰り返していた人を、ついに捕まえることができたのだ。
一度は捕まえたことのある人、決して嫌われてはいないだろうと思える人を捕まえられずにいる日々は 切なく やるせないものだったろう。
その人を、ついに その胸に抱きしめることができた氷河の心中は察するに余りある。
戦いの日々が長すぎて、しかも その戦いは常に生死のかかった苛酷なもので、瞬に対する氷河の好意が そういう種類のものである可能性に考えを及ばせたこともなかった星矢には――もしかしたら 薄々 心のどこかで気付いてはいたのかもしれなかったが、真面目に考えたことのなかった星矢にしてみれば――氷河の思いの結実には、ある種の驚きと相まって、胸に迫るものがあったのである。

束の間のものではあるのかもしれないが、平和の時が訪れたからこそ、氷河は こうして瞬を捕まえることができたのだ。
地上世界が平和であること――平和。
戦う術を持たない人々にとっても、その平和を勝ち得るために戦う者たちにとっても、それは どれほど価値あるものであることか。
その 価値あるもののために、自分たちは これからも命を賭して戦い続けるのだと――黄金の衣を まとって戦い続けるのだと、星矢は、自分たちに課せられた務めを誇りに思い、また、その決意を一層 強くしたのである。

「二度目から――僕が氷河から逃げ続けたのは、いつまでも氷河に僕を追いかけていてほしいって思ったからだよ。氷河が僕を見て、僕だけを見て、まっすぐに僕を追いかけてきてくれることが、僕は嬉しかったんだ。僕、氷河が鬼の時だけは、いつも本気だったの」
今は平和な聖域で、瞬が 氷河の胸の中で小さく呟く。
「おい、瞬。おまえ、俺たちが鬼の時には、あれで手加減してたのかよ!」
今になって明かされる驚愕の事実に、星矢は少々――否、大いに――衝撃を受けたのだが、それは氷河には ただ嬉しく喜ばしく、その上 自尊心と恋心を切なく くすぐられる告白以外の何物でもなかったらしい。
氷河は、瞬を抱きしめる腕に 更に強く力を込めた。






【next】