ともかく、そこにいたのは、綺麗すぎ、目立ちすぎる二人の人間だった。
おそらく 俺が入っていくまで、何か秘密の話でもしていたんだろう。
俺の姿を認めて 話をやめ――沈黙が俺を迎える。
俺は、異次元に――異世界に迷い込んだような気がした。
カウンターの向こうには 酒瓶の並んだ酒棚(バックバー)、緩やかな楕円を描くカウンター、テーブル席が4つ、店主のこだわりを感じさせる調度。
そこには、バーにあるべきものは すべてあった。
だが、空気が違う――バーにあるべき空気がない。
そこにあるのは、異世界の空気とでも呼ぶべき、尋常でない何かだった。

魔法の扉を開けて 中に入っていったら、そこが100年も未来のアンドロイドがエネルギーを補給する店だったとか、アーサー王の頃の魔法使いや妖精のいる世界の居酒屋だったとか――そんなふうだったなら、人は こんな違和感を覚えるのかもしれない。
想像していたものとは全く違う――いや、もしかしたら 俺は、そこが、そこにいる二人の人間以外は 俺の予想を裏切って あまりにも“普通のバー”だったから――“普通のバー”にしか見えなかったから、違和感を覚えたのだったかもしれない。
俺が想像していたのは、たとえば、一見 人当たりのよさそうな、だが、いかにも裏のありそうな得体の知れないバーテンダーが、うだつの上がらない営業マン風の男と密談をしている場面。
密談の内容は、違法薬物の売買、人身売買 もしくは 臓器売買、あるいは武器や情報の取り引き。
そんなところが俺の想像の限界だったともいえるが、とにかく、何らかの悪事がなされているはずの店に こんなに綺麗で目立つ人間がいることを、俺は全く考えていなかったんだ。

何なんだ、この店は。
ここは、綺麗な人間しか入れない店なのか。
そういえば、あの行列を作っていたのは、きっちり化粧をして 高そうな服を着た女ばかりだった。
以前は 公安で危ない橋も渡ってきた男が 婚活バーと勘違いするような。
目立たないことを身上にして、いかにも野暮な よれよれの背広を着ている俺みたいな男は、この店には いかにも場違いだ。

「今日は休みだ」
綺麗すぎるバーテンダーが、その美貌に ふさわしく冷たい声で、俺を追い払おうとする。
「氷河! お客様に、また そんなこと言って……。どうぞ、お入りください」
バーテンダーが追い返そうとした男を、澄んで大きな瞳の客が店内に招いてくれた。
「瞬!」
それが不満だったらしく、金髪のバーテンダーが非難の色の濃い声で、客の名を呼ぶ。
バーテンダーが客を追い返そうとし、客の方が他の客を歓迎するなんて、あべこべだろう。
が、その あべこべのおかげで、二人の名がわかった。
金髪のバーテンダーが氷河、美少女の客が瞬。
悪びれた様子もなく 俺を招き入れるところを見ると、成人しているのか、この美少女。
美少女? 本当にそうか?
俺は もちろん、バーテンダーじゃなく 客の言葉の方に従ったんだが、カウンターに近付くほどに、その客の異常さが はっきりしてきた。

綺麗な――本当に綺麗な――これは何だ。
地球の生き物なのか――人間か?
人間だとしたら、女か? 男か?
瞬と呼ばれた得体の知れない客は、姿勢がよく、いい服を着ていて、動作も きびきびしていて、隙がなく、愛想もよかった。
呆れるほど欠点がないのに、恐ろしく印象的で清潔な顔をしていて――だが、いわゆるアイドル顔ではない。
俳優やモデルの顔でもない。
そんなものに例えるのも馬鹿らしいほど、すべてを超越して美しい。
普通の“綺麗な人間”とは次元が違う。

「いつも行列ができている店に列がなかったんで、今日は入れるかと思って来てみたんですが……」
気後れし、おどおどしている小心な市民を装って、俺は そう言ってみた。
いや、それは“振り”ではなく、素だったかもしれない。
正体不明の二人の前で、俺は 本当に委縮していたのかもしれない。
それでも、俺は、その場から逃げ出すことはせず、楕円を描いているカウンターの いちばん端の席に腰を下ろした。
客とバーテンダーの二人共を観察できる場所に。

平和な日本で、自分を異質な人間だと感じることは幾度もあったが、これまでの それは、いつでも、俺の方が優位にあるという意識だった。
俺の方が強く、より多くの情報を握っているという余裕が作る優越感だった。
だが、今は違う――今の俺は違う。
途轍もない緊張感を漂わせているのに、スーツを着た美少女は、親しみやすい表情と眼差しと声の持ち主だった。
言葉使いも丁寧だ。
物腰も やわらかで、感覚が鈍い人間は騙されるだろう。
これは、力もなく善良で安全な人間だと。
だが、俺は 危険の兆しを見逃さない目と 危険の匂いを嗅ぎつける鼻を持っている。

「あ、じゃあ、この店が繁盛しているというのは本当なんですね。氷河が僕に心配をかけまいとして、そう言っているんじゃないかと疑っていたんですが」
心配?
何を心配するって?
「この店の前には いつも、若い女が列を成している。地上階の方まで」
「氷河は 女性が好むお酒を作るのが上手なの?」
瞬が、本当に心配が薄れたような 温かい視線をバーテンダーに向け、尋ねる。
俺でさえ つられて微笑んでしまいそうなくらい心安げな瞬に、バーテンダーは、
「そんなわけがない」
と、素っ気なく答えた。
よく そんな態度がとれるもんだ。
こんなに優しげな表情の人間に対して。
俺は、そんな変な感動の仕方をしていた。
無論、心身の緊張は緩めずに。

「でも、女性が来てくれるお店は流行るっていうから、よかった」
この美少女は、本気で心配していたのか?
この店がつぶれることを?
警察の手入れが入ることではなく?
いや、そんなことより――。
「失礼。君は女性ではないのか」
確かめずにはいられなくて、俺は尋ねてしまっていた。
この得体の知れない優しい生き物は、女には見えないが、男には もっと見えない。

「ええ」
“瞬”は 俺の質問に気を悪くした様子は見せず、微笑んで頷いた。
多分、瞬にとって それは、問われるたびに いちいち気分を害していられないほど 問われ慣れた問い掛けだったんだろう。
『女性ではない』と答えられても、俺は、『なら、男だ』と思ってしまうことができなかった。
瞬は、中性――いや、無性に見えた。
性的に未分化の子供、そもそも性別のない天使、異世界の何か、人工知能搭載の機械――。
いや、それはないな。
この人間は命で輝いている。
だから、“美しい”と感じるんだ。
『これは途轍もなく“美しい生き物”だ』と感じる。

この命あるものを、何に例えればいいのか。
こんな独特の美しさは 初めて見る。
だが、何かに似ているような気がする。
その“何か”が何なのかを すぐには思い出せず、思い出せない自分に、俺は焦れた。
懸命に自分の脳の記憶域にある“瞬”に重なるデータを探し、俺はやっと その“何か”を見付けた。
わかった。
花だ。
それも、薔薇やカトレアみたいに派手な花じゃなく、もっと控えめで清楚な、だが、どんな豪勢な花より目を引く花。

瞬は、戦場に咲く花だ。
そんな花を、俺は見たことがある。
ただ一人の肉親だった母親を病で亡くし、心置きなく公務員でいることをやめられるようになった俺が、危険を求めて日本を飛び出し、某国の民間軍事会社の外人部隊に傭兵として身を投じて まもなく。
アフリカ南西部の某国の内戦地帯に派遣された俺が――まだ未熟だった頃の俺が――初めて機関銃を人に向けて撃った日。
勇み足と思い上がりで果たすべき任務に失敗し、敵の銃撃を まともに受けて、俺は地に倒れ伏した。
そこに――どれくらい離れていただろう。
2メートル、3メートル、もっと距離があったんだろうか。
薄茶色の大地に白い花が一輪 咲いていたんだ。
多量の失血のために視界がぼやけてきて、死を覚悟した俺に、その花の姿だけが、異様なほど鮮明に見えていた。
自分の未熟に腹を立て――身悶えするほど腹を立てていた俺の気持ちが、諦めのせいではなく、その白い花のおかげで落ち着いてきた。

花を見ながら死ねるなんて、なかなか いい死に方じゃないかと、俺は思ったんだ。
運がいいのか悪いのか、やがて仲間の救援部隊がやってきて、結局 俺は その“なかなか いい死に方”ができず、生き延びてしまったんだがな。
あの時 俺が九死に一生を得たのは、『この白い花の姿を、できるだけ長い間 見ていたい』という強い願いが 俺の中に生まれ、それが いつまでも消えなかったからだったと思う。
瞬は、あの花に似ている。
あの時、俺には、あの小さな花が、地上にある すべての命を形にしたものに思えた。
小さくて 可愛くて 美しくて健気で、そして、強い。
俺が死んでしまっても、おまえだけは生き続けてくれと、心から願った、あの花。
あの花だ、瞬は。






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