もともと 視線と心が引きつけられていたんだが、あの花の姿と瞬を結びつけた俺は、ますます瞬から視線を逸らせなくなった。 そんな俺に苛立ったんだろう。 金髪のバーテンダーが、 「飲むのか」 と俺に訊いてきた。 ついに俺を客として遇する気になったからじゃなく――氷河は、俺が瞬に向けている視線を 腕づくでは引き剥がせないから、言葉で遮ろうとしたんだろうな。 酒を飲む場所で、全く酒に興味を示さず、客だけを見詰めている客がいたら、まあ、バーテンダーとしては苛立たずにいられないだろう。 その気持ちはわかる。 俺は 慌てて、ほとんど反射的に、 「ウォッカ・マティーニ」 と、バーテンダーに酒の名を告げたんだ。 一拍置いて、金髪のバーテンダーは 薄く笑った――ように、俺には感じられた。 そのオーダーを、氷河は、ジェームズ・ボンドの真似だとでも思ったんだろうか。 実はその通りだったんだが。 俺はいつもはウイスキーをストレートで飲む男だ。 あれは、消毒にも使える。 最も俺に馴染んだ酒だ。 だが、まあ、作るのに手間のかかる酒をオーダーした方が、少なくとも バーテンダーが その準備をしている間、その鋭い視線の外にいられると、俺は思ったんだ。 飲んだこともないのに、俺は ウォッカ・マティーニのレシピを知っている。 それは、ウォッカとドライベルモットをステアして作るショートカクテルだ。 もちろん、俺は それを映画で知った。 確か、ジェームズ・ボンドは、『ステアではなく、シェイクで』とオーダーしていたな。 氷河は、おそらく気を利かせて、シェイクで それを作ってくれた。 ――のは、いいんだが。 ショート・カクテルなんて代物は、ジェームズ・ボンドだから――最もスパイらしくないのに、スパイの典型を思われているジェームズ・ボンドだから似合うんだと、目の前に置かれたカクテルグラスを見て、俺は思うことになったんだ。 俺みたいな男は やっぱり、ウイスキーのストレートをスキットルで かぶ飲みする方が似合っている。 が、『似合わないから』なんて理由で、出されたものを飲まないわけにはいかない。 そんなことをしたら、見るからに危険な目をしたバーテンダーが どんな対応をしてくるかわかったもんじゃないし、なぜか 瞬が期待に満ち満ちた目で、俺と俺の前に置かれたカクテルグラスを見詰めていて――。 仕方がないから、俺は そのグラスを手に取って――グラスの持ち方は これでいいのか? ――ジェームズ・ボンドお薦めのウォッカ・マティーニを飲んでみたんだ。 一口飲んで、口を突いて出てきた言葉は、 「美味い」 だった。 こんなに こじゃれた――つまり、俺には似合わない姿をした酒なのに、あまりに美味くて――。 俺は 初めて顔を上げ、正面から まともに金髪の男の顔を見た。 俺は それまで、氷河の冷たい目を見るのも、その目に見られていることを自覚するのも嫌で、無意識のうちに氷河から視線を逸らしていたんだ。 そこにあったのは、鋭く冷たいのに熱い目。 金髪の綺麗な男は、俺の『美味い』を聞くと、意外や 嬉しそうに、俺に――いや、瞬に、 「この店には、酒の味がわかる客は滅多に来ない」 と言った。 それは そうだろう。 あの行列の構成員たちは、酒の味より 自分の身なりの方に ずっと気を遣っている女たちだ。 少なくとも、俺の目には そう映っていた。 瞬が、心外そうに、ほんの少し唇をとがらせる。 「僕だって、少しは お酒の味が わかるようになってきているよ」 「甘いか甘くないか、強いか軽いか、その程度だろう。そんなのは味がわかるとは言わん」 「人が飲食物を美味しいと感じるのにはね、味覚の他に嗅覚や視覚や――それから、心という要素だって関係しているの。氷河が作ってくれるものだから 格別に美味しいと思う僕の気持ちを、氷河は否定するの」 「……」 瞬の反論に出会った金髪男が黙り込む。 俺は、緊張を忘れて、つい笑いそうになってしまった。 この金髪男は、瞬に惚れているんだ。 惚れた相手に そんなことを言われて――言ってもらえて――応じる言葉を、咄嗟に思いつけずにいる。 こんなに綺麗な男でも、自分以外の人間を好きになるもんなんだな。 相手が この瞬では、それも致し方なし――というところか。 思いがけない場面を見せられて、俺は 少し気を緩めてしまっていた――かもしれない。 氷河を やり込めた瞬に、ふいに、 「失礼ですが、緊張を強いられるお仕事をなさってらっしゃいます?」 と話を振られ、俺は慌てて気を引き締めた。 なぜ そんなことを訊くんだ。 ――と、言葉にはせず仕草で、俺は瞬に尋ねた。 瞬が、気遣わしげな眼差しを俺に向けてくる。 「内臓が――心臓と、他にも複数の臓器が、過度のストレスで弱っているように見えます。身体は鍛えているようですが、いたわることも なさった方がいいですよ。心身共にリラックスする時間を持った方がいい。今も、かなり緊張されていますね」 緊張していることを――意識して心身を緊張させていることを、俺はどうやら瞬に見透かされていたらしい。 その事実に気付き、俺は かえって緊張の度合いを増した。 それにも気付いたんだろう。 瞬が、困ったように首をかしげる。 「不躾なことを言って、すみません。僕は医者なんです」 「医者? まさか」 「え?」 「こんな綺麗な医者がいるわけがない」 つい、反社的に そう言ってしまってから、俺は自分の非論理的な言い草に呆れた。 瞬が虚を突かれたような顔になり、氷河が、 「馬鹿か」 と吐き出すように――いや、“ように”じゃなく、氷河は まさしく言葉を吐き出した。 そう言いたい気持ちはわかるが、俺は、瞬が自分を医者だと言ったことに驚いたんじゃない。 瞬に『公務員です』と答えられても、俺は驚いていただろう。 モデルと答えられても、役者だと答えられても、驚いていた。 こんな特殊な人間が、医者だの公務員だの俳優だのモデルだのと、そんな普通の人間が就く仕事に就いているはずがないじゃないか。 まだ、天上から下りてきた天使だとか、異世界から来た妖精だとか、変身能力のある宇宙人だとか言われた方が得心できる。 瞬は、凡百の輩とは、雰囲気が まるで違う。 その身に まとっている緊張感の種類、空気の色が違う。 そして、美しさの次元が違う。 なにより、瞬は“普通の人間”じゃない。 『“人間”じゃない』とまでは言わないが、絶対に“普通の人間”じゃない。 長く軍籍にあった人間だって、これほどの緊張感を備えてはいないし、その緊張感を これほど巧みに隠すことはできない。 ――と、緊張していることを 瞬に見透かされてしまった俺が言うのも何だが、それが現実だから仕方がない。 今時の軍人や兵士は、自分の手で直接 人を殺さないから、殺気や危機感を あまり持っていないんだ。 そういうものは、軍兵より、ボクサー等の格闘家の方が よほど強く大きく激しいものを持っている。 自分の手で直接人を殺さずに済むように、人間は銃というものを発明したんだと、俺は思っている。 それでも戦場で心傷を負う兵士は多いから、人間という動物は、原始時代の人間たちに比べると、ずっと やわになってきているんだ。 特に心が。 |