俺に引き下がるつもりがないことを認めたのか、瞬は もう一度 困ったように微笑んで、そして、 「じゃあ、秘密を一つ 打ち明けましょう。誰にも洩らさないでくださいね」 と、俺に言ってきた。 顔と肩を緊張させ、俺は唇を引き結んだ。 「僕が普通の人間と違うのは――」 緊張のあまり、俺は ごくりと息と唾を飲み込み――、 「僕は恋をしているんです。命をかけた恋を」 次の瞬間、息をするのを忘れた。 な……何を言い出したんだ、この綺麗な花は。 瞬が打ち明けてくれた秘密が、あまりに思いがけなくて、あまりに突拍子がなさすぎて、まともに思考を組み立てられない。 こんなことで 地球が途轍もない速さで回っているのを自覚することになろうとは。 いや、回っているのは――狂っているのは、俺の平衡感覚の方なのか? 「氷河をどう思います?」 「あれも危険な男だ。だが、はっきりと危険だとわかる分、得体の知れなさはない」 あんたほどには。 いや、俺が知りたいのは、そういうことじゃなくて――。 「氷河は強くて、弱くて、優しくて、冷たくて、孤独で、でも一人ではなくて、言葉ではなく、眼差しで語る、そんな人間です。愛も、罪も」 俺が そんな話を聞きたいと思っているんじゃないことを、瞬は わかっているはずだ、 わかっているはずなのに――瞬は、益体もない話を続ける。 「僕は そんな氷河が愛しくて、氷河のためになら、命をかけることもできる。比喩ではなく 本当に、僕は氷河を守るためになら、命をかけられます」 「俺が知りたいのは――」 ごまかすなら、せめて もっと違うネタにしてくれ。 恋? 何だ、それは。 アンドロメダ大星雲から飛来した宇宙人だとか、異次元からやってきた人外の生き物だとか言われた方が、まだ ごまかされてやってもいいという気になるぞ、俺は。 「この地球上で、僕ほど 深く激しい恋をしている人間はいないと断言できる。僕が普通の人間と違うところがあるとしたら、それだけです」 俺の不満に気付いているくせに、真顔で言い募る瞬に、俺は――俺は腹を立てることもできず 呆れて――いや、あっけにとられていた。 瞬が俺を煙に巻こうとしていることは わかるんだが、瞬は嘘をついているようには見えなくて――それが俺の混乱に拍車をかけていた。 「氷河には言わないでくださいね」 「なぜ 言っては駄目なんだ。なぜ言わない」 あの男も、瞬に惚れてる。 多分、命をかけて。 俺が そう思うのは、あくまで、瞬と氷河が人間という生き物で、人間と同じ心を持つものだという前提に立ってのことだが。 二人が人間外の何かなら、そんなものの心や考え方は、俺にはわからないぞ。 人間なのか、二人は? 「さあ……僕にもわからない。でも」 「でも?」 「でも、今の二人がいいような気がするんです。氷河にとっても、僕にとっても。二人の思いが恋という形をとってしまったら、この恋が実って、二人が結ばれてしまったら、僕たちは他の何もいらない人間になってしまうような気がして、恐い。僕は臆病なのかもしれませんけど、そういうことは、もう少し 人間修養してからの方がいいような気がするんです」 臆病? 誰が臆病だと? こんなに得体の知れない力を感じさせる人間が、どうすれば臆病になんかなれるんだ。 「あなたは 恋をしたことがあります? 本当に、本当の恋をしている人間はみんな 特別なんですよ。この地上では、特に先進国では、恋なんて死語になりつつある。受益の期待や欲望を、恋という名で呼んでいるだけ」 瞬は、何か別の秘密を隠すために そんなことを言っている。 それは わかるんだが――そんなことを俺に語る瞬の瞳が びっくりするほど真剣で、真面目で――瞬が もし人間と同じ心を持つものなら、それは 確かに重要な秘密であるように、俺には思えてきた。 しかし、“恋”が死語とは。 恋なんてものは、人間世界の そこここに、石ころのように転がっているもののような気がするんだが、そういうものでもないのか? 昨今では――この平和な日本では、そうじゃなくなってきているのか? 恋なんてものに まるで縁のない生活をしてきた俺には、よくわからないんだが。 俺が恋した相手は、スリルと危険だった。 危険の中に身を投じるために、自分が強くなることを求めた。 常に緊張し、命をかけて生きる喜び。 危険の中に飛び込み、危険の手をすり抜け生き延びること。 そんな場所に自分を置いて生きる実感、充実感。 それが、俺の恋したもの、求めたものだ。 瞬は――この可憐な花は、俺が くぐりぬけてきた危険や危地以上のものを知っているんだろうか。 そして、生き延びてきたんだろうか。 俺は ふと、瞬は人の命を奪ったことがあるんじゃないかと思った。 それも、銃や爆薬なんていう間接的で卑怯な武器を使ってじゃなく、自分の手で。 こんな少女の風情をしたものがまさかと思わないでもないんだが、それでも。 もちろん、それは自分の益のためじゃなく、別の何かのため、自分以外の誰かのためだ。 もし自分の益のために、自ら望んで、他者の命を奪ったのなら、瞬の瞳が こんなに澄んでいるはずがない――こんなに澄んで 強いはずがない。 俺は、この世界の裏の裏、奥の奥を知っているつもりだが、更に別次元の何かが この世界には存在するんだろうか――? 澄み切った瞬の瞳。 悲しげな瞬の瞳。 これまで静かだった俺の中のエマージェンシー・コールが、また けたたましく鳴り響き始めた。 『危険。危険。もう これ以上 近付くな』と。 今、俺の前には、綺麗な花が一輪 咲いているだけなのに。 瞬は美しい。 人間として異質な美しさを持っている。 普通の人間のそれとは 次元の違う美しさ。 この美しさを作ったものは 何なんだろう。 俺は 瞬を強いと思い、危険だと思うが、瞬を邪悪な人間だとは思わない。惨酷な人間だとも思わない。 だが、綺麗すぎて、清らかすぎて危険な人間というものも、この世界には存在する。 瞬がそうだ。 瞬が俺に その美しさと強さの秘密を打ち明けないのは、俺のためだ。 俺がそう思うことには、根拠も理屈もない。 ただ、瞬の澄んだ瞳が そうなのだと、俺に告げていた。 だから――だから、俺は諦めたんだ。 瞬の秘密を知ることを。 瞬が何者で、なぜ強いのか、どれほど強いのか、何のために強いのかを知ることを。 「すまない。詮索するつもりはなかった」 俺のプライドを守るため、俺の人生を意味あるものにするために、この澄んだ瞳の持ち主を困らせるわけにはいかない。 理屈も根拠もなく――俺は、瞬の清らかさ、瞬の善良さ、瞬の強さに 説き伏せられていた。 俺の その言葉を聞いた瞬が、安堵したように、俺に 優しく温かい眼差しを投げてくる。 「僕は、罪びとかもしれないけど……。信じてください。僕は――僕たちは、あなたを守るために、すべての人間を守るために存在する者です」 おそらく、本当は氷河のためにだけ使いたい命をかけて。 瞬は、だから、自分の恋を秘密にしているんだ。 この瞬に――瞬と氷河に、命をかけさせるほどの脅威とは、いったい どれほどのものなんだろう。 それは いったい何なのか。 それこそが、瞬と氷河の秘密の片鱗。 瞬が隠そうとしている、本当の秘密。 聞いては駄目だ。危険だ。 瞬は、俺を危険に巻き込みたくないと言っている。 自分の手の内をさらけ出すことで 相手への信頼を示し、そうすることで逆に、死を何とも思わない腹心を作る人間を、俺はこれまでに幾人か見てきた。 瞬の秘密を知ってしまったら、俺は この綺麗な花のために 命を捨てることのできる男にされてしまうだろう。 瞬は、それをしたくないんだ。 決して俺を非力な存在として 軽んじているわけではなく――多分、俺の命と幸福を守るために。 「そうか。恋か。大変な秘密を聞いてしまったな」 そう答えること以外、俺に何ができただろう。 俺の その言葉を聞いて、瞬が嬉しそうに微笑む。 「あなたは、死線を かいくぐって生き延びてきた。それだけの強運と賢明さを お持ちの方だ。よかった」 瞬の姿に、戦場で見た白い花の面影が重なる。 あの時、あの花は俺に何と言っていたか。 花を見ながら死ねることを喜び、自分の死を覚悟した俺に、あの花は『生きて』と言っていたんだ。 今 初めて、そうだったのだと、俺は知った。 |