「ねえ、星矢」
「何だ」
「人間が……生きていることを 心から楽しいと感じたり、幸せだと思える時って、どんな時だと思う?」
「何だよ、藪から棒に」

瞬が星矢に そんなことを尋ねてきたのは、自分こそが この世で最も不幸な人間だと思い上がっている男に、星矢たちが忠告を垂れてやった日の夜のことだった。
城戸邸のラウンジに カノンと氷河の姿はなく、それゆえ、瞬の相談事が 二人のいないところで為されなければならないこと――二人に関することなのだと わかる。
言葉では『藪から棒に』と応じたが、星矢は 内心では、『瞬は やっと 仲間の存在を思い出してくれたらしい』と、瞬の藪から棒を喜び、安堵したのである。
そのために、瞬の仲間たちは 瞬の側にいるのだから。

「まるで おまえ自身は 生きていることを楽しいと感じたり、幸せだと思ったことがないような口振りだな。そうなのか?」
おそらく 星矢と同じ気持ちでいたのだろう紫龍が、瞬に問う。
瞬は小さく首を横に振った。
「そんなことはないんだ。ん……ほんとのこと言うと、僕、自分が生きてることを楽しんでるのかどうかとか、自分が幸せなのかどうかとか、そんなことを考えたことがなくて……。いつも、生き延びることに必死で、そんなこと考えてる余裕がなかったから。でも、僕は、いつも幸せだったんだろうと思うよ。僕の側にはいつも、兄さんや星矢たちがいてくれたから。つらいと思ったこともあるし、悲しいと思ったこともあるけど、不幸だとか、孤独だとか思ったことはない。僕は 本当に恵まれていた。後悔はあるけど、道を誤ったと思ったことはない。だから、逆に わからないのかもしれない。道を誤ってしまった人の苦しみが」

『それはカノンのことか』と訊くのは時間の無駄である。
そう問う代わりに、紫龍は、
「カノンは、最近は楽しそうにしているように見えるが」
と告げた。
「あいつ、氷河が感情 剥き出しのリトマス試験紙みたいで、すげー愉快な玩具だって言ってたぜ。氷河は あれでも、自分ではクールに決めてるつもりなのにさ」
星矢と紫龍の その言葉を、仲間への慰撫だと思ったのだろう。
瞬は、いかにも無理をした様子で、ささやかな微笑を作った。
「そう……」
声というより吐息のように小さな声で そう言い、瞬が唇を噛みしめる。

「僕たちと出掛けてても……多分 カノンは大人だから、楽しんでる振りはしてくれるんだ。でも、そんな時も――すごく つらそうな目で虚空を見詰めたり、顔は笑顔を作ってるのに、すごく 冷めて寂しそうな目で 僕や氷河を見てたりするの。きっと 彼の中では、彼が過去にしてしまった様々なことや、黄金聖闘士全員が死んでしまったのに 自分だけが生き延びてしまったことが、どうしても抜けない棘みたいに 彼の心の中に残ってるんだろうなあって思えて、それで……」
「だから、カノンに、生きていることを 心から楽しいと感じて、自分は幸せだと思ってほしいってか」
「うん……」

実は 大して深い考えもなく、自分より出来がいい(と余人に思われている)兄への対抗心に突き動かされて悪事に走ったような男の幸福を、瞬が これほど真剣に思い悩んでいたら、氷河の機嫌が悪くなるのも道理である。
それは、ひどく瞬らしく、ひどく氷河らしいことだった。
自分の苦しみより他人の苦しみの方に より大きな痛みを感じる瞬らしく、そんな瞬の代わりに 瞬の分も瞬の心身の安寧を案じる氷河らしい。
そのことが嬉しくて、星矢は 張り切って 瞬の相談に乗ってやったのである。
星矢らしく、かなり軽快な(軽率な)調子で。

「人が、生きていることを 心から楽しいと感じて、自分は幸せだと思う時なんて、そんなの、おまえと氷河を見てりゃ わかるぜ!」
「え?」
「恋だ! 恋をしてる時だ! それ以外で、生きてることが楽しくて幸せな時なんて、美味いものを腹いっぱい食ってる時以外にない!」
「……星矢。それが 必ずしも間違った意見だとは言わないが、そこまで きっぱり断言するのも――」
この世に深慮という単語があることを知らない星矢の、星矢らしい、単純明快で断固とした主張。
そんな星矢に振りまわされ続けたために、嫌でも慎重にならざるを得なかった紫龍の、紫龍らしい諫言。
いわゆる適材適所。適正な役割分担ができており チームワーク抜群の青銅聖闘士たちの問題点は、(比較的)慎重派の紫龍と (基本的に)穏健派の瞬が、とにかく一番に飛び出ていきたがる星矢、戦況を全く見ようとしない氷河、団体戦の お約束を無視してのける一輝に 先んじることができないということだった。

「恋……」
今日も、紫龍の忠告は 少々 遅きに失したのである。
カノンと氷河にとっては 不運なことに。






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