その日、カノンと氷河が二人で出掛けることになったのは、瞬が計画した観光ツアーが、トーキョー都下にある某酒蔵見学とSビール工場見学だったからだった。
「僕は、お酒の匂いを嗅ぐと具合いが悪くなって、二人に迷惑をかけるかもしれないから」
そう言って、瞬は 氷河とカノンを二人だけで送り出し、『瞬の前で お子様扱いされて ふてくされる氷河を見るのが楽しいのであって、瞬のいないところで 氷河に生活指導をしても楽しくない』という理由から、カノンは 見学先での氷河のアルコール試飲を大目に見てやったらしい。
そして、到底 未成年とは思えない氷河のふてぶてしい外見に騙され、かつ、酒の味に対する氷河の的確な品評に気を良くした酒蔵とビール工場の責任者たちは、あれもこれもと氷河に酒を薦めたらしい。

その夜、上機嫌で城戸邸に帰ってきた氷河を見た瞬は、その日以降、他の酒蔵見学、他のビールメーカーの工場見学、ウイスキー蒸留所見学、ワイナリー見学等々、トーキョー近郊に これほど多くのアルコール関連施設があったのかと驚き呆れるほど多様なアルコール観光ツアーを組んでくれるようになった。
もともと 酒類は 嫌いではないカノンと、“アルコール度数10パーセント以下はソフトドリンク”な国での暮らしが長かった氷河は、瞬が組んでくれる粋なツアーに気をよくして――少なくとも、和紙博物館や寄生虫博物館に向かう時よりは喜び勇んで――それらの施設に出掛けていったのである。



氷河は、当初は、瞬の目を気にせずにアルコールを たしなむことのできるアルコール観光ツアーに浮かれていた。
瞬の目的は、日本独特の文化である“飲みュニケーション”をカノンに体験してもらうことなのだろうと思っていたし、他の あらゆることで意見が対立するにも関わらず、酒に関してだけは妙に意見の合うカノンとのアルコール観光ツアーは、氷河にも そう不快なものではなかったのだ。
飲みュニケーションとは よく言ったもの。
酒を間に置けば、氷河はカノンと意気統合することもできたのである。
瞬の組むアルコール観光ツアーは、青銅聖闘士の生活指導の側面では ともかく、遠来の客の“おもてなし”という点では、大きな成果をあげていた。
が、そんなふうに楽しいツアーも1週間連続となると、さすがの氷河も 瞬の組むアルコール観光ツアーに 奇異の念を抱くことになる。
もちろん 氷河は、瞬の組むアルコール観光ツアーに奇異の念を抱いた。

酒蔵見学から帰ってくる。
瞬に『楽しかった?』と問われ、『ああ』と答える。
そんな氷河に、瞬が『よかった』と呟いて微笑む。
その時の瞬の瞳の色が 日に日に暗く沈んでいくことに、どれほど酒に浮かれていても気付かない氷河ではない。

が、さりげなく探りを入れてみても、少々 きつめに問い詰めてみても、瞬は黙秘権を行使し続ける。
となれば、氷河が相談を持ちかける相手は、彼の仲間たちしかいなかった。
いつもなら、氷河と瞬のトラブルとなると、相談を持ちかける前からトラブルの匂いを嗅ぎつけて、鼻を突っ込み、首を突っ込み、手を出し、口を出してくる星矢と紫龍が、今回に限っては逃げたそうにしているのが引っかかったが、ともかく 氷河は、彼等に ここ数日の瞬の態度の変化の理由に心当たりはないか 尋ねてみたのである。

瞬を真似たわけではないだろうが、星矢は最初のうちは黙秘権を行使していた。
氷河が小宇宙を燃やす態勢に入るのを見て、いかにも しぶしぶといったていで、星矢が口を開く。
「も……もしかしたら――もしかしたら……なんだけどさ。瞬は、カノンに楽しく幸せな人生を送ってもらうために、奴に恋をさせることを思いついたんじゃないかなー……なんて」
一目で何かを ごまかすための空笑いと わかる乾いた星矢の笑いが、妙に気に障る。
星矢の笑いが作りものめいていればいるほど、氷河の中の不快は密度と濃度を増していった。
「それと 俺の酒飲みツアーが どう関係あるんだ。それで、どうして瞬が沈んでいくんだ」
「いや、俺も まさか こんなことになるとは思ってなくてさー。ほら、普通、いい歳こいた おっさんに恋をさせようと思ったら、美人のねーちゃんとの出会いを画策するもんじゃん」
「何を言っているんだ。俺は いい歳こいた おっさんの話などしとらん。俺が知りたいのは、なぜ瞬が沈んでいるのか、その理由だ」
「いや、だから……」

猪突猛進、暴虎馮河、無理無謀、無鉄砲、向こう見ずが売りの星矢は、自分の軽率なアイディアが引き起こした事態に怯えて、今は すっかり及び腰状態。
その言葉通り、星矢は、自分の助言が こんなことになるとは毫も思っていなかったのだ。
言葉に詰まった星矢を見兼ねた紫龍が、これまた いかにも しぶしぶといったていで代打に立つ。
もちろん、紫龍とて、本心では こんな役目はご免被りたいと思っていた。
「つまりだな……瞬は、その……カノンの人生を実り多いものにするために、奴に恋をさせることを計画したんだ」
「なぜ 瞬が そんなことを計画しなければならんのだ。放っておけばいいんだ、あんなジジイ。奴は、俺と争うくらいの酒飲みだぞ」
「うむ。全くだ。放っておけばよかったんだ。瞬は どうも、人のことを気に掛けすぎる きらいがある。それは瞬の美点でもあるが、場合によっては、その人間の自立を阻害するという弊害を生じる可能性もあることで――」

なんとか 話を脇に逸らそうとした紫龍の目論みは、氷河の、
「で?」
という言葉で(?)頓挫した。
それでも どうしても 率直に主題を語る勇気を持つことができず、紫龍は 懸命に遠隔説明・風景描写に逃げたのである。
「瞬は責任感が強い。しかも、(たち)が悪いほど、真面目だ。誠実でもある。カノンに恋をさせるにしても、瞬は 無責任な出会いを画策することはできなかったんだろう」
「俺とカノンを城戸邸から追い払って、カノンの恋人候補でも物色していたのか」
「違う」
そうであったなら、どんなによかったか。
そうであったなら、地上世界は どれほど平和であったことか。
しかし、現実は そうではなかったのだ。

「あー……。これは、あくまでも俺の憶測にすぎないんだが、カノンに素晴らしい恋をしてもらいたいと思った瞬は、自分が この世で最も美しく 最も優しいと思っている人間に、カノンの恋人候補として白羽の矢を立てたんだ、おそらく」
「責任感の強い瞬らしいな。あんな嫌味なジジイには、テキトーにテキトーな女を斡旋しておけばいいのに。だが、それと 瞬が沈んでいることが、どう関係あるんだ」
どうして 氷河は、自らを不幸にするようなことを聞きたがるのか。
どうして 氷河は、自ら 地獄に飛び込んでいくようなことをしたがるのか。
氷河の浅慮と蛮勇が、紫龍には全くもって解せなかった。

「だからだな。瞬にとって 最も美しく最も優しい人間は――いや、もちろん 俺も、瞬のその判断は大いに間違っていると思うんだが……」
「貴様、本題前の前置きが長すぎるぞ。おまえがどう思っているのかは どうでもいいから、とっとと結論を言え。瞬にとって 最も美しく最も優しい女というのは誰だったんだ」
「いや、だから――」
氷河は勝手に誤解している
自分に都合良く、自分の心と立場の平穏を守るために、無意識のうちに現実から目を逸らしている。
しかし それは、アンデルセンの『パンを踏んだ娘』のように、ぬかるみを避けるためにパンを飛び石代わりに使う行為と同じ。
自らを地獄の深い沼に沈み込ませる行為と同義なのだ。

「瞬は間違っている。完全に間違っていると、俺は思うんだが……」
「だから、勿体ぶらずに結論を言えと言っているんだ!」
「だからだな。瞬が責任をもって、自信をもって、カノンに薦められる最高の恋人というのは――」
「瞬が責任をもって、自信をもって、カノンに薦められる最高の恋人というのは?」
ここまで きっちり正確に反復して問われては、もはや逃げようも ごまかしようもない。
痩せても枯れてもアテナの聖闘士。
困難を前にして、退くわけにはいかない。
紫龍は覚悟を決めるしかなかった。
だから、紫龍は覚悟を決めたのである。
覚悟を決めて、紫龍は、氷河の知りたいことを氷河に教えてやった。

「それは、つまり、どこぞの白鳥座の聖闘士だった――と」
「なに?」
紫龍と星矢は、もちろん すぐに逃げの態勢に入ったのである。
ここで、この至近距離で、怒りと混乱で臨界点を突破した氷河のオーロラエクスキューションの直撃を受けたなら、黄金聖闘士どころか 神でも命が危うい。
貴鬼を足蹴にするアイザックへの義憤に突き動かされて放ったオーロラエクスキューションでも尋常でない破壊力を発揮した その技が、恋人に裏切られた(?)怒りに かられて放たれたなら、それは どれほどの破壊と破滅を この地上に現出することか。
星矢と紫龍は まだまだ生きていたかったし、生きていなければならなかったし、何より そんな私情まみれの技のせいで死にたくはなかったのである。

が。
星矢と紫龍の懸念に相違して、氷河は その技を放つことはなかった。
小宇宙を燃やすこともしなかった。
小宇宙を燃やすどころか。
氷河の小宇宙と意気は、 むしろ 小さく弱くなっていった。
どうやら 氷河は、紫龍の告げた言葉の意味を すぐに理解することができなかったらしい。
5分ほど考えの整理に務め、なんとか状況を理解し、いよいよ白鳥座の聖闘士の小宇宙爆発かと思われた その時、その瞬間。
「なにぃーっ !! 」
とラウンジに大音声を響かせたのは、白鳥座の聖闘士ではなく、元シードラゴンの海将軍にして現ジェミニの黄金聖闘士であるカノンその人だった。

星矢と紫龍が その怒声――むしろ悲鳴――に驚いて振り返ると、ラウンジのドアの前には、元シードラゴンの海将軍にして現ジェミニの黄金聖闘士が立っていて、彼は 今にも泡を吹いて倒れそうな――憤死寸前の顔をしていた。
そこで何とか 足を踏ん張り抜き、転倒も昏倒も絶命もしなかったのは、さすがは黄金聖闘士と言うべきなのだろう。――なのかもしれなかった。
「ア、ア、ア、ア……アンドロメダは何を考えているんだっ! こんな阿呆の単純馬鹿の飲んべいの悪ガキの、しかも オ……オトコを、この俺にあてがうだとーっ !! 」

カノンの驚愕はわかる。
カノンの混乱もわかる。
カノンの憤りも、そして その憤りに、ある種の情けなさが混じっていることも、星矢と紫龍には わかりすぎるほど明瞭に わかった。
だが、瞬の仲間である星矢と紫龍には、瞬の考えも(不本意ながら)きっちり わかってしまうのだ。
「瞬が何を考えてるのかって、そりゃあ、あんたに幸せになってほしいって、それだけを真面目に真剣に考えたんだよ、瞬は」
「そんなことをしてくれと頼んだ覚えはないっ! 真面目に真剣に考えた結論が これだというのなら、アンドロメダは ハーデスよりたちの悪い人類の敵だっ!」

とんでもない しっぺ返し。
こんな仕打ちを受けるくらいなら、黄金聖闘士12人にアテナエクスクラメーションを食らった方が はるかにまし。その方が、百万倍 ダメージが少ない。
カノンは本気で そう思っていた。
さすがは、サガの野望(半分はカノンの野望)、ヒルダの野望(実はカノンに操られたポセイドンの野望)、ポセイドンの野望(もちろんカノン自身の野望)、そして ハーデスの野望を退けてきたアテナ子飼いの聖闘士の一翼。
アンドロメダ座の聖闘士は、たかが子供と侮ってはならない恐るべき強敵だったのだ。

「この俺を愚弄しやがって!」
憤怒と混乱のせいで、カノンには 生来の口の悪さが戻ってきていた。
ついでに、瞬の呼び名も元に戻っていた。
「アンドロメダはどこだ! 俺は、青銅聖闘士ごときに 自分の人生の世話をしてもらおうとは思わんっ!」
カノンの怒りは 至極尤も。
怒りのあまり、その小宇宙が、彼の兄であるジェミニのサガのそれを凌駕するほどの強さと激しさをもって燃え上がるのも、至極当然、至って自然。
アテナの聖闘士でありながら、城戸邸はおろか、都内全域を覆い尽くそうかというカノンの小宇宙に気付きもせず(?)自室に閉じこもっていられる瞬の方が不自然なのだ。

怒れるカノンと、カノンの怒りのせいで ついうっかり自分の怒りを忘れてしまった氷河の前に、この事態の元凶である瞬が姿を現わしたのは、それから10分の後。
これほど激烈な小宇宙の中にありながら、一向に自室から飛び出てこない瞬を、紫龍が呼びに行ったから。
紫龍に伴われてラウンジに下りてきた瞬の目は、どこぞのウサギに憑依されでもしたかのように赤味を帯びていた。






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