瞬の目が赤いのは、泣いていたからなのか、寝不足のせいなのか。 いずれにしても 瞬は、都内全域を覆うほど強大なカノンの怒りの小宇宙に気付くこともできないほど つらく悲しいことがあって、一人で自室にこもり、沈みきっていたらしい。 その瞬を、 「アンドロメダ、貴様、なぜ こんな ふざけた真似をした! 俺に――この俺に、女なら まだしも、この糞生意気なガキと、こ……こ……鯉だか、鯛だか、金魚だかっ!」 と責め立てることのできるカノンに、星矢は胸中で感心してしまったのである。 全力をもって戦わなければ地上が滅びるかもしれないような非常時なら ともかく、今は平時。 瞬の打ちひしがれた様子を見て、その上で 瞬を責めることなど、星矢には到底できない神技だったから。 「あ……あの……」 瞬は、カノンの怒りというより、彼を ここまで怒らせてしまった自分自身に驚いているようだった。 瞬が、カノンの剣幕に怯え、身体を縮こまらせる。 「す……すみません。あの……僕、沙織さん――アテナに頼まれて……」 「アテナに頼まれた? 言うに事欠いて、すぐに ばれる嘘をつくんじゃないっ! アテナが こんな馬鹿げたことを おまえに頼んだりするものかっ!」 カノンに頭ごなしに怒鳴りつけられて、瞬が びくりと身体を震わせる。 怒髪天を衝いている金剛力士も かくやとばかりの形相をしているカノンを、瞬は 切なげな目をして見上げ、見詰めた。 瞬が嘘をつくはずはないから、瞬がアテナに何事かを頼まれたのは事実なのだろう。 おそらく 瞬は、その頼み事の内容を間違って理解したか、やり方を間違えたのだ。 ――と、瞬の仲間たちは思っていた。 だが、カノンは、瞬の仲間ではないから――瞬の人となりを知らないから――瞬を 頭ごなしに怒鳴りつけてしまうのだ――瞬を怒鳴りつけることしかできない。 そんなカノンに、瞬は おずおずと アテナの頼み事の内容を語り始めた。 「カノンは――ポセイドンを利用して 地上世界に大規模な水害を引き起こし、そこに生きていた多くの人々の命を奪った。彼を信じて戦った海将軍たちの命も奪った。どれほど悔いても、失われた命を取り戻すことはできない。そのことを知っているカノンは、罪滅ぼしのために、死んだつもりで生きている。確かにカノンのしたことは取り返しのつかない過ちだけど、でも 彼は生きているのだから――彼には 彼の人生を自分のために、自分の意思で生きる権利がある。もちろん、幸福になる権利もある。カノンには せめて、自分が生きていることには意味があるのだと思って生きてほしい。生きようと思って生きてほしい。そういうふうにしたい。――アテナは、そう言ってました。どうすれば、カノンが そういう生き方をできるようになるか、考えてあげてって」 「……」 「きっと 僕も ハーデスに操られて、あなたと同じようなことをしたから……だから アテナは僕に それを頼んだのだと思います。僕には仲間がいて、仲間たちのおかげで 立ち直ることもできた。でも、あなたは一人きりで残されてしまったから……だから、あなたは 僕より もっとずっと つらいんだろうって、僕は思った。だから、僕――」 「……」 身体を小さく丸めている瞬の前で、カノンが黙り込む。 言うべき言葉を思いつけなかったのか、言いたいことが ありすぎて、逆に言葉に迷ったのか、それは 瞬の仲間たちにはわからなかったが、ともかく カノンは黙り込んでしまった。 カノンが何も言わないので、瞬も 瞼を伏せて、そのまま黙り込む。 そうして生じた、重く息苦しい沈黙。 瞬の仲間たちは、カノンと瞬が作る 重苦しい沈黙を打ち破りにくかったのである。 しわぶき一つあげるのにも かなりの覚悟が要る、沈痛な沈黙。 その沈黙を破って、カノンの代わりに 氷河が瞬を責め出したのは、3割が自分のため、3割が瞬のため、残りの4割は、黙り込むことしかできなくなったカノンのためだった。 ひねくれて育った大人には、瞬の優しさ やわらかさは、毒にも似た劇薬なのだ。 「瞬。おまえの気持ちはわかるし、アテナの考えもわかる。カノンに恋をさせようとしたことも、1万歩譲って是としよう。しかし、その恋の相手が なぜ この俺……口にするのも おぞましいが、なぜ この俺なんだ! 瞬。俺は おまえの恋人なんだと思っていたが、その認識は間違っていたのか。確かに ここ数日、いろいろ さぼってはいたが、それは酒を飲んで――いや、酒蔵見学のせいで 酒の匂いが残っているかもしれないと思ったからで――あ、もちろん、ちゃんと身体は洗っているが、おまえは何かと敏感だから、その――」 脛に傷持つ身の人間は、他人を責めるのも指導するのも 何かと苦しい。 氷河の難詰は、いつのまにか 言い訳の羅列になってしまっていた。 瞬が、それが言い訳の羅列なのだということに気付く人間でなかったことは、氷河にとって幸いなことだったのか、不幸なことだったのか。 氷河ならぬ身の星矢と紫龍には それはわからなかったのだが、ともかく 瞬は それが氷河の苦しい言い訳なのだということに気付かなかったようだった。 委縮し、蚊の鳴くような声で、自身の事情を訴える。 「氷河は優しくて綺麗で、いつも僕のこと 庇ってくれて、僕は氷河が大好きだよ。きっとカノンも そういう人に出会えたら、僕みたいに幸せな気持ちになれるだろうと、僕、思ったの。この世に生まれてこれたことは 奇跡のような幸運で、大好きな人と一緒に生きていられることは 素晴らしいことなんだと思えるようになると思った。でも、僕、氷河より綺麗で優しい人を知らなくて――」 だから瞬は、責任をもって 自信をもって 薦められる 綺麗で優しい人を、恋人候補としてカノンに推薦したのだ。 そういうことのようだった。 どうやら、自分の恋人を世界で最も素晴らしい人だと思っているのは、氷河だけでなく、瞬もそうだったらしい。 それは、恋をしている人間としては 極めて正当な(?)誤認なのかもしれないが、並の恋人同士ごときには なかなか到達できない高次の領域である。 「……瞬って、色々 間違ってるよな」 星矢のぼやきには、紫龍も同意するしかなかった。 瞬は、恋をする者としては正しく一般的な心情に沿った言動を実践しているのかもしれないが、一個の人間としては間違いすぎている。 「なのに、氷河とカノンが仲良くなっていくのを見てたら……氷河は そのうち、僕のことなんか気にも かけなくなるんだって思ったら、つらくて、悲しくて、苦しくて……」 瞬の瞳に、涙が にじみ始める。 それを見てとった瞬の仲間たちの対応は 迅速だった。 「ば……馬鹿、瞬、泣くなよ。んなこと あるはずねーだろ。氷河は、目標を一つ決めたら、それに向かって突き進むことしかできない、超不器用な超々馬鹿たれだぞ! よそ見する能もねーし、脇道があったって、んなことには気付きもしねー男だよ!」 「星矢の言う通りだ。それにな、瞬。氷河にも、氷河の好みというものがあるんだ。カノンは どう考えても、氷河の好みの範疇外だ。50円 賭けてもいい」 「賭けるなら、その1億倍 賭けろ! 瞬、俺の趣味は、おまえが思っているよりも ずっと洗練されているんだ。俺が好きなのは、地上で最も清らかな心を持つ、稀有で特別な人だ。その人だけだ!」 瞬の仲間たちが、よってたかって瞬の傷心を癒すための言葉を投げ、瞬の誤解を是正するべく努め始める。 (こいつ等は……) カノンは相変わらず沈黙を守っていたが、瞬を取り囲む青銅聖闘士たちを見ているうちに、カノンが作る沈黙の意味内容は少しずつ変化してきていたのである。 アテナの願い。 瞬の思い。 瞬を囲む、瞬の仲間たち。 黄金聖闘士たちが青銅聖闘士たちに勝てなかったのも道理。 彼等は、常に、どんな戦いでも、一人で戦ってはいない―― 一人で生きてはいないのだ。 『あんたは、それで瞬や氷河を手玉にとって遊んでるつもりかもしれないけど、そうやって思い上がってると、そのうち、手痛い しっぺ返しを食らうことになるぞ』 しっぺ返し。 たかが青銅聖闘士ごときが、仮にも黄金聖闘士に、これほどのダメージを与えることができようとは。 ダメージというものは、強大な力や 強力な技によってのみ 被るものではないらしい。 優しさによって被る苦痛。 自身を苦しめても、他者の幸福を願う人の心によって与えられる痛み。 他者と共にあることに価値を置かず、他者と共にあることに背を向け、やがては 一人で生きることを余儀なくされ、現に一人で生きている男には、それは ひどく きつい衝撃であり、驚きでもあった。 |