「死んだつもりで生きるのをやめ、生きようと思って生きてほしい……か。まさか、俺に そんなことを望む者がいるとは――いてくれるとは」 『綺麗事を言うな』『甘ったれたことを言うな』と、以前の自分なら思い、言葉にもしていただろう。 『馬鹿にするな』と憤り、『俺は一人でも生きていける』と強がり、『俺は 生きたくて生きているのではなく、ただ死に損なっただけだ』と反発していたかもしれない。 たった今も、それは綺麗事にすぎないし、甘ったれた考えだと思う。 馬鹿にされたと思うし、自分は一人で生きていくこともできると思う。 自分が生きていることに 価値や意味があるとは思わないし、希望を持って生きたいとも 幸福になりたいとも思わない。 だが、その考えを、カノンは、今 ここで、青銅聖闘士たちの前で 言葉にしてしまうことはできなかった。 なぜか――どうしても――カノンには そうすることができなかったのである。 その 甘ったれた綺麗事が、本当に美しいものだったから――とても美しいものであるように思えたから。 「変わっているな。アテナもおまえも。俺のことなど 放っておけばいいんだ。死んだつもりで生きている男は、殺されても文句は言わないんだから、せいぜい利用すればいいのに」 アテナがシードラゴンの海将軍カノンを許した時、自分はアテナの心を まだ正しく理解してはいなかった。 黄金聖闘士たちが、海皇ポセイドンの海将軍だった男を聖域の黄金聖闘士として認め受け入れてくれた時も、その黄金聖闘士たちが死んでいったあとも――シードラゴンの海将軍カノンを許してくれた者たちの心を、自分はまだ本当には わかっていなかったのだ。 ――と、カノンは今 初めて気付いた。 「それができないから、瞬は瞬で、アナテはアテナなんだよな。二人共、ほんと、傍迷惑なんだけどさ」 許された当人以外の ひよっ子たちは、ちゃんと わかっていたのに。 「皆、馬鹿だ。俺は、神に反逆し、神を騙し 利用しようとした大悪党の前科者だぞ」 反逆者の悪党を 誰が許してくれても――アテナが許してくれても、瞬が許してくれても、この地上世界に生きている すべての人間が許してくれても――自分は自分を許せない。許してはならないと思う。 だが、許してくれる人たちの心を拒み 否定することはできない――と、カノンは思ったのである。 他でもない。反逆者の悪党を許してくれる、美しく優しい心を持つ人たちのために。 それが どれほど つらく困難なことであっても、自分は 自分を許してくれる人たちのために、希望をもって生きていかなければならないのだ、 そう カノンは思った。 「瞬。おまえは こんな阿呆が好きなのか、本当に?」 念のために、確認を入れてみる。 瞬は、カノンに小さく頷き返してきた。 では、瞬から“こんな阿呆”を奪って、瞬を悲しませるわけにはいかない。 双子座の黄金聖闘士カノンは、アテナのために、瞬のために、生きていることを楽しんでいる幸福な男にならなければならない。 生きようとして生きる人間に、自分の生に意味があると考えて生きている男に ならなければならないのだ。 それこそ、瞬が期待する通りに恋でもして。 ただし、その相手は自分で選びたい。 それくらいの自由は許されてもいいだろうと、カノンは思った。 なにしろ、反逆者で悪党のカノンは、これから“自分の生に希望を持って、前向きに生きる”という、これまで為したことのない難事業に挑むのだから――と。 「おまえの目に、氷河が どれだけ綺麗で優しい男に見えているのかは知らんが、俺の目には、氷河は ただの ろくでなしにしか見えん。残念ながら、俺は おまえの期待には沿うことはできそうにない。すまんな、瞬」 「え……」 カノンの謝罪――に、瞬は まず驚いた。 次に、アンドロメダの聖闘士の計画に乗れないという彼の言葉を、自分は残念に思うべきなのか、それとも 喜ぶべきなのかを迷う。 瞬が その答えに行き着く前に、カノンは、さっさと彼の“答え”を瞬に語る作業に取りかかっていた。 「だが、それは それとしてだ。自分の生に意味があると考え 希望をもって生きてほしいというのが、俺に対するアテナの望みだというのなら、俺は その望みに応えたい。力を貸してくれるか、瞬」 「は……はい! それは もちろん。僕にできることなら、何でもします……!」 「何でも?」 瞬に問い返してから、カノンが ちらりと意味ありげな一瞥を氷河に投げる。 それが いかにも腹に一物ある人間のそれだったので、氷河は 嫌な予感に襲われたのである。 嫌な予感――それは、途轍もなく嫌な予感だった。 相手は、仮でも補欠でも腐っても黄金聖闘士。 そして、単純な正義の士ではない。 一筋縄ではいかない海千山千の男。 こういう男が、瞬の優しく清らかな心に触れて、たとえ どれほど胸を打たれようと、素直に善人に生まれ変わるわけがないのだ。 もちろん、氷河の嫌な予感は当たる。 「き……貴様、瞬に何をさせるつもりだ! 何を企んでいる!」 「愚問だな。俺はアテナの聖闘士だ。アテナの意思に従うことが、アテナの聖闘士の務めだろう。これから俺は、希望をもって 前向きに生きていく。たとえば、地上で最も清らかな魂を持つ人に恋をして」 カノンは実に楽しそうに、見るからに意地の悪い表情を作って そう言った。 瞬ではなく、氷河に向かって。 「瞬の悪趣味を直すこともできて、一石二鳥だ。アテナには、おまえたち青銅聖闘士の生活指導も命じられていることだし、せいぜい アテナの期待に応えられるよう努めなければ」 「い……いい歳をした不良親父の分際で、瞬に ちょっかいを出すつもりかっ! 瞬には、行ない正しく、誠実至極な、清廉潔白な正義の士だけが 近付くことを許されるんだ! この身の程知らずがっ」 「では、俺が まず取りかからなければならない仕事は、貴様を瞬から引き離すことだな」 「貴様に そんなことをする権利はないっ!」 「俺が元反逆者の悪党だからか? 瞬も そう思っていると思うか」 「ぐ……」 もちろん、瞬は そんなことは思わない。 どんな罪を犯した人間でも、その人間が心から前非を悔いていれば、瞬は その人間を許すだろう。 瞬が許さない罪は、瞬自身が犯した罪だけなのだ。 それを知っているから、氷河は言葉に詰まった。 瞬は、氷河の味方にも カノンの味方にもつけず、二人の間で困惑している。 瞬の その様子が、カノンに対する氷河の怒りを更に大きいものにすることになった。 「冗談に決まってるのに、氷河は なに本気で怒ってんだよ」 星矢が、氷河の大人気ない振舞いに呆れ、 「氷河が本気で怒るということは、カノンには ひょっとすると ひょっとする――という気持ちがあるということだろうな。氷河は、こういうことには 異様に勘がいい」 紫龍が、軽く左右に首を振る。 「まさか……。瞬の悪趣味は筋金入りだぞ」 「人生、良くも悪くも、何が起こるかわからんものだぞ。だからこそ、人は希望をもって生きていられるんだ」 「それは そうだけど……」 理屈の上では、そうだろう。 瞬の心とて、不変のものではないのだ。 ひょっとすると ひょっとする。 カノンは 本当に そう思っているのだろうか。 星矢には、カノンの真意は わからなかった。 星矢に わかるのは、カノンが 昨日までの彼と違うこと。 今の彼が ひどく楽しそうな目をしていることだけだった。 それは、彼が 氷河という愉快な玩具を手に入れたからなのか。 それとも、彼が アテナの心、瞬の心に触れたからなのか。 確かに、人生は、良くも悪くも 何が起こるかわからないものだろう。 それでも、星矢には、“希望を持ち、生きようとして生きてほしい”というアテナの望みを、カノンが必ず叶えるだろうことだけは わかっていた。 彼の幸福を心から願っている者たちがいることを、今のカノンは知っているのだから。 Fin.
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