我が思う人は

~ さえさんに捧ぐ ~







「そういえば、氷河。最近、シュラさんの勤勉振りを報告してくれなくなったけど、その後、どう?」
出勤前の氷河のマンションの部屋。
店長(マスター)が敬語を使わなければならないアルバイトの仕事振りを、瞬が氷河に尋ねたのは、氷河が家を出なければならない時刻までに まだ少し 間があったからだった。
ナターシャは、自室で、パパと遊んでいた玩具の お片付け中だったので、少々 手持ち無沙汰なせいもあったかもしれない。

ナターシャが お片付けを済ませてリビングにやってくるまでの 場つなぎに 何気なく口にした瞬の問い掛けに、氷河が 過剰に反応する。
彼は 自身の不機嫌を隠そうともせず、
「それを、おまえが俺に訊くのか?」
と反問してきた。
その声の調子だけで おおよその察しはついたのだが、瞬は 素知らぬ振りをして氷河に頷いたのである。
「僕には、シュラさんに 氷河のお店を紹介した責任があるし、シュラさんを 氷河のお店に紹介した責任もあるからね」
「ほう」
氷河が わざとらしく顎をしゃくってみせる。
彼は、(自称)真面目で勤勉な新入りアルバイトに 相当 手を焼いているようだった。

「無責任に紹介してから、責任を感じられても、有難くも何ともないな。俺がシュラの勤勉振りを おまえに報告しなくなったのは、愚痴や泣き言を繰り返すのは男らしくない振舞いだと思うからだ」
氷河が どれほど冷ややかな眼差しを投げてきても、あいにく瞬は それを恐がることができない。
大抵の人間が 恐れをなす氷河の視線を、瞬は やわらかな微笑で受けとめた。
「僕が そんなふうに思うわけないでしょう。愚痴でも泣き言でも、何でも言って。僕が慰めてあげるから」
「おまえはシュラの勤勉振りの被害を直接 受けるわけではないから、そんなふうに気楽でいられるんだ」
「そんな言い方はしないで。いくら何でも、グラス磨きくらいはできるようになったんでしょう?」
氷河の店で働き始めた当初、シュラは それすらもできなくて、氷河は、『ナターシャの方が はるかに使える』と文句を言い、ナターシャを喜ばせていた。
シュラがグラス磨きもできないことより、使えないアルバイトを強く叱責できないことに、氷河は苛立ちとストレスを募らせているようだった。

「話にならん。さすがに グラスを磨きながら切ってしまうことはしなくなったが、その分、普通に割るだけだ。相変わらず 掃除は雑だし、フルーツをカットするように言うと、カッティングボードごと切ってくれる。酒の試し飲みだけは熱心で、無駄に強い上に、ほとんど底なし。素晴らしい勤勉振りだ」
「あらら」
「昨日は 2時間も遅刻してきた。前の夜に来た客が言問団子の話をしていったんだが、その話を聞いて、どうしても団子が食いたくなって、買いに行っていたらしい」
「言問団子? あ、そういえば、氷河のお店の近くに言問橋があるね」
「ああ。言問橋の近くに 問題の団子を売っている団子屋があるのだと勝手に思い込んで、3時間も 団子屋を探しまわったんだそうだ。俺には真似できない執念だ」
「……」

団子屋を探して 3時間。
氷河ほど短気でも性急でもない瞬にも、さすがに それは真似できない。
アルバイトの面接に来た際のシュラの自己PRは、『勤勉で真面目』だったそうだが、彼は その勤勉さ真面目さを、仕事とは関係のないところで発揮しているようだった。

「あ……。押上のすぐ隣は業平だし、あの辺は在原業平に ゆかりの土地なの?」
言問橋が、『古今和歌集』の六歌仙の一人であり、『三十六人撰』の三十六歌仙の一人でもある在原業平の歌に ちなんで名付けられた橋だということは、瞬も知っていた。
長さは200メートル長。
恋多き男の歌に由来しているわりに、言問橋は 直線的で、比較的 武骨な橋である。


名にし負わば いざ言問わん都鳥 わが思う人は ありやなしやと
――“都”という名を持つ鳥に尋ねよう。私の恋しい あの人は無事でいるのかどうかと。


京の都を追われて、東国に下ってきた在原業平。
隅田川のほとりで初めて見た白い鳥の名を“都鳥”だと教えられた彼は、その鳥に、都にいる思い人の消息を尋ねた。
『伊勢物語』第9段“東下り”の第4首目。『古今和歌集』巻9“羇旅歌”にも収められた名歌である。
シュラの勤勉振りの話は続けない方がよさそうだと考えて、瞬は 話を変えたのだが、それは 氷河を更に不機嫌にすることにしか役立たなかった。

「あの歌を詠んだ時、業平は、いったい何人の“思う人”を思い浮かべていたんだか」
それが、業平の歌への 氷河の率直な感想(?)であるらしい。
“平安時代随一のプレイボーイ”という業平のキャッチフレーズを念頭に置いて鑑賞すれば、その歌に 叶わぬ恋の切なさを感じ取ることは難しいのかもしれない。

「言問橋は業平の歌が由来だが、東京都墨田区業平は 歌とは無関係だ。業平が都鳥の歌を歌った時よりずっと後、業平が あの辺りで没したという説があるらしい。今はなくなったが、以前は業平天神社という神社があったそうだ」
「やっぱり あの辺りは業平に縁のある場所なんだ。氷河が お勤めするには ふさわしい場所だね」
「なぜだ」
氷河の声には、全く抑揚がない。
それほど――容易に払拭できないほど――氷河の不機嫌は深刻なものになってしまったようだった。

「だって、在原業平って、素晴らしい美男子で、とっても女性に もてた人なんでしょう? 僕は 通り一遍のことしか知らないけど、一目見ただけで 焦がれ死にしてしまった女性もいたっていう逸話くらいは知ってる。きっと、氷河みたいに素晴らしい美貌の持ち主だったんでしょう」
「あんなのと一緒にするな。俺は、おまえ一筋だ。在原業平なんて、俺のいちばん嫌いなタイプの男だ」
それは知っている。
次から次に恋の相手を変える男は、団子屋を探して仕事に遅刻するアルバイト店員より、氷河とは相容れない。
同じ美貌の持ち主でも、恋の仕方は人それぞれ。
『一緒にされて たまるか』と言わんばかりの氷河の口調に、瞬は くすくすと忍び笑いを洩らした。






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