紫龍経由でアテナに働きかけ、事態の収拾を図ろうとしていた氷河は、結局 そんな まだるっこしい手を使うのを やめたらしい。
ナターシャのために――氷河は、自身の軽率をアテナに叱責されることを覚悟して、アテナに直接 助力を乞うことにしたようだった。

平尾丸との別れの時は、おそらく まもなくやってくる。
そう感じたからこそ、瞬は、平尾丸とナターシャに楽しい思い出を作ってやろうと考えて、氷河の店の近所にある某遊園地に 二人を連れていく計画を立てたのである。
そのために――電車で遊園地に行くために――平尾丸を駅に連れていったのが、そもそもの間違いだった。

それまで 遠目に電車を見て、“同じ道しか走れない巨大な蛇”と表していたそれが、実は 乗り物だったことを瞬から説明されて、平尾丸は興味津々。
電車がホームに入ってくると、融通の利かない大蛇を側で見たいと言って、平尾丸は線路に飛び下りてしまったのだ。
迫りくる電車のスピードに驚き、その場で動けなくなってしまった平尾丸を、もちろん 瞬は すぐに助け出した。
瞬が怪我を負うことになったのは、平尾丸を救うためではなく、平尾丸が線路に飛び下りたこと、その平尾丸を瞬が救い出したことを、駅にいる一般人に気付かれぬようにするため、走行中の電車を飛び越え向かいのホームに移動しようとした際の 僅かな目測ミスだった。

「ナターシャちゃん、電車に乗らずに東口に出て、駅前広場で待ってて」
線路に飛び下りる直前の、ナターシャへの小声の指示。
ナターシャは心得た子で、瞬の指示を聞くと、線路に飛び下り平尾丸を抱えて向かいのホームに移動したマーマと合流すべく、速やかに瞬の指示に従った。
平尾丸の救出劇は 駅にいた大勢の人間に気付かれぬことなく、つつがなく行われ、平尾丸も怪我一つしなかったのだが、その際のミスで 瞬は頬を大きく切ってしまったのだ。
瞬が目に見える傷を負い、そこから流れる鮮血を見てしまった平尾丸は 激しいショックを受けたらしい。
瞬はすぐに 小宇宙の力で 流れ出る血を止めたのだが、平尾丸の受けたショックは治まらなかった。

「済まぬ……! 済まぬ。あの蛇が こんなに速く動くものだったとは――。あんなに瞬の手を離すなと言われていたのに――済まぬ……!」
非があるのは、どう考えても、おっとりした平安時代の貴族の子供を電車に乗せようとした 21世紀の大人の方にある。
にもかかわらず、泣きながら『済まぬ』を繰り返す平尾丸に、瞬の罪悪感は募った。

「丸くん、泣かないで。大丈夫。こんな傷、すぐに治るから。僕の方こそ、ごめんね。ちゃんと丸くんの手を繋いでいるべきだった」
「瞬の言いつけを守らなかったのは我じゃ。済まぬ。瞬が死んだら、我は どうすればいいのじゃ……」
「その心配はいらないよ。僕は強いの。何があったって、丸くんを守るよ」
「丸ちゃん、泣かないで。マーマは強いんダヨ。電車も自動車も、マーマには勝てないんダヨ」

駅前広場のベンチに座らされ、顔を ぐしゃぐしゃにして『済まぬ』を繰り返していた平尾丸が 突然静かになったのは、瞬とナターシャの慰めが功を奏したからではなかったようだった。
ベンチに座っている平尾丸の前にしゃがんで 平尾丸の顔を見上げていた瞬の目を、平尾丸が なぜか腹を立てているような険しい表情で睨みつけてくる。
それから平尾丸は、責めるように――否、明白に 瞬を責めてきた。

「なぜ我を守るのじゃ」
「え?」
「我など、あの大蛇に食われてしまえばよかった。我がいなくなっても、父君も母君も兄君も 何とも思わぬ。なのに なぜ、瞬は我を守るなどというのじゃ」
「丸くん……」

幼い頃、瞬は いつも考えていた。
母の記憶のない自分と、母に愛された記憶があり、その母を失ってしまった氷河とでは、どちらの方が 悲しい子供なのだろうと。
その答えは今も わからなかったが、ナターシャを そのどちらでもない子供にしたくて、瞬は氷河と共にナターシャを守り、愛してきた。
わからなかった答え。
今も わからない答え。
だが、たった今、平尾丸の挑むような目を見て、瞬にわかったことが一つだけあった。
両親が生きていようが死んでいようが、両親の記憶があろうが なかろうが、両親に愛されていることを信じることができず、両親に愛されていることを実感できずにいる子供が いちばん悲しい。
いちばん悲しい、その事実――。

瞬は、平尾丸の両手を 強く握りしめたのである。
それだけでは足りなくて、平尾丸の手を引き、その肩を引き寄せ、悲しい子供を しっかりと抱きしめた。
「なぜって――僕が丸くんを守るのは、丸くんは生きているべきだから――丸くんに生きていてほしいからだよ。丸くんには、いつも元気でいてほしい。それから 強く優しい大人になって、幸せになってほしい。そのためには、丸くんに生きててもらわなきゃならない」
「我は――」
「丸くん」
自分は父にも母にも愛されていないと、これ以上 平尾丸に言わせないために、瞬は彼の名を呼んで、彼の言葉を遮った。
抱きしめていた腕を解き、心細げな子供の瞳を見詰める。

「丸くん。僕には、お父さんも お母さんもいなかった。僕は、まだ赤ちゃんだった時に、両親を亡くしたの。もちろん 寂しかったし、つらいこともあった。でも、大人になって氷河やナターシャちゃんに会って、今は とても幸せでいる。丸くんも幸せになれるよ。丸くんが そうなりたいと望めば、きっと」
「瞬……」
“実例”は“一例”にすぎない。
それは瞬にも わかっていた。
平尾丸にも わかっているようだった。
瞬を見詰め返す平尾丸の目が そう言っていた。
だが、“一例”が可能性を示すものであることも、平尾丸はわかってくれているようだった。

「痩せっぽちで貧相などと言って済まなかった。瞬は、我が見たことのある人間の中で最も美しい女人だ」
「ありがとう。でも、僕は――」
“女人”ではない――と言いかけて、真実を語ることの無益に気付き、思いとどまる。
平尾丸は、生きているのに我が子を抱きしめてくれない母が慕わしくてならないのだ。
失われたマーマを恋しがっていた幼い頃の氷河と 何も変わらない。

「マーマは、パパとナターシャのマーマだけど、丸ちゃんになら、ちょっとだけ貸してあげるヨー」
平尾丸の欲しているものが何なのかは、ナターシャにも感じ取れているらしい。
「破格の大さぁびすじゃの」
この世界に来て覚えた言葉を口にして、平尾丸がナターシャに微笑する。
「ありがとう、ナターシャ」
もしかしたら平尾丸は――平尾丸も――ナターシャのマーマを“ちょっとだけ貸して”もらえる時間が残り少ないことを感じ取れているのかもしれなかった。






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