『ごめんなさい。もう二度と クロノス様の悪口は言いません』を10回 言って、氷河はクロノスに勘気を解いてもらったらしい。
「最初はね、『1回 言うのは謝罪だが、10回 言わせるのは無意味な見せしめだ』と言って 抵抗していたのだけれど……。最近は、ナターシャちゃんより あなたの方が平尾丸くんに入れ込んでいるんですって? 結局、氷河は折れたわ」
アテナは 暗に、『あなたのために、氷河はクロノスに頭を下げたのだ』と言っていた。
「今日、平尾丸くんが この世界に来た時と同じ時刻。この世界に来た時に身に着けていたものを 身に着けさせておくようにと、クロノスからの伝言よ」

沙織から電話が入ったのが夕方5時。
平尾丸が この世界に来たのは 氷河の出勤時刻直前だったので、残された時間は30分ほどしかない。
瞬は慌てて、チェストの奥に しまっていた小狩衣と奴袴ぬばかまを取り出し、それらを平尾丸に身に着けさせたのである。
下げ角髪の結い方は わからなかったので、髪はナターシャのヘアゴムで ごまかした。
その後、ゴムは まずいと思い直し、木綿の紐に変える。
瞬が慌ただしく平尾丸の帰国(帰時?)の準備をしている間、平尾丸は ずっと沈んでいた。

「我は どうしても 帰らねばならぬのか」
同じ質問を3度、平尾丸は瞬に投げかけてきた。
「うん。お父さんやお母さんが心配して――」
言いかけた言葉を、途中でやめる。
瞬が何を言おうとしたのかを察したらしい平尾丸は、その瞼を伏せた。
「心配などしておらぬ。父君は兄君にしか期待しておらぬし、母君は、皇族の地位を捨てて 臣籍に降った父君に愛想を尽かして 出家した。我は一人ぽっちじゃ」
「丸くん……」

『そんなことはない』と、『きっと心配している』『子供の身を心配しない親はいない』と 安易な慰めを言うのは無責任である。
瞬が平尾丸に与えることができるのは、可能性を示唆する言葉だけだった。
「でもね。これから 丸くんが人を心から愛せば、同じように愛を返してくれる人は、きっとたくさんいるよ。そうして、丸くんは幸せになれるんだ。自分は誰にも愛されないと、諦めたりしちゃ駄目。すべては、まず自分が愛するところから始まるんだよ」

そう言われても、平尾丸は不満げ。そして、不信げ。
「僕はそうした」
と瞬に言われて やっと、平尾丸は、
「瞬がそう言うなら、そうする」
と答えることをした。
答えた側から、
「このまま、東国に――瞬の許に留まってはならぬのか? 我は、子供だから帰らなければならぬのか? 我は、もう二度と 瞬に会うことは叶わぬのか?」
半泣きで、瞬にすがってくる。

『そうだ』と、『僕たちは もう二度と会えない』『決して会えない』と、瞬が平尾丸に明言できなかったのは、『決して、ない』という言葉が平尾丸の幸福の可能性までを否定することになりはしないかと、それを恐れたからだった。
“希望”と“可能性”のある世界で、『決して、ない』ということが 本当にあるだろうか。
瞬が『決して、ない』と言わなかったことが、平尾丸に希望を与えたようだった。

「大人になったら、我は 必ず 瞬を探し出す! 必ず、もう一度会う。瞬こそが、この世で最も美しい人だ!」
平尾丸の身体の輪郭が ぼやけ始める。
「丸くんは きっと、僕より綺麗な人に出会って、その人を愛して、愛されて、そして 幸せになるんだよ」
瞬の声は、平尾丸の耳に届いたのか。
「瞬……瞬……! 我は必ず、瞬を探し出す。きっと、きっと もう一度 瞬に会う……!」
平尾丸の切ない訴えは、彼の姿が消えた虚空から、瞬の胸と耳に響いてきた。






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