「丸ちゃん、消えちゃっター」 平尾丸の消えた部屋で 呆然としていた瞬を 我にかえらせたのは、ナターシャの小さな呟きだった。 こうするしかなかったのだが、これでよかったのかという思いが、瞬の中に生まれてくる。 我は必ず、瞬を探し出す――平尾丸の悲鳴に似た訴えが、瞬の耳から離れなかった。 「丸くんが探しているのは、丸くんを抱きしめてくれるお母さんで……。僕、丸くんに ちょっとだけ、子供の頃の氷河を重ねてたみたい」 「……」 「丸くんは幸せになれるよね? お母さんは無理でも、いつか心から愛する人に出会って、丸くんは幸せになれるよね?」 「……」 こういう時、本心は どうあれ、『やっと厄介払いができた。せいせいした』くらいのことを言い、クロノスの所業に毒づくくらいのことをするのが、いつもの氷河である。 あるいは、確信がなくても、瞬のために『もちろん、あのガキは幸せになれる』と言ってくれるのが。 その氷河が、何も言わずに 無言でいる。 瞬は訝って、氷河の顔を見上げたのである。 氷河は、その事実を言うべきか、言わずにいるべきかを、迷っているようだった。 迷って、結局 言うことにしたのは、あとで瞬が その事実に気付いてしまった時のことを 憂慮したからだったろう。 「平尾丸というのは、在原業平の幼名だ」 「え?」 嫌いすぎて覚えてしまった、その境遇、生涯、詠んだ歌。 氷河は、最初から気付いていたらしい。 「……業平は、自分が何を探しているのか、わかっていたんだな」 だが、彼の生きている世界に その人はいなかったのだ――彼の求める人は、彼の世界にいなかった。 名にし負わば いざ言問わん都鳥 わが思う人は ありやなしやと ――私の愛する あの人は どこにいるのか。私は あの人に もう一度会うことができるのか。都鳥よ、頼むから教えてくれ。 「あ……」 もちろん、それは――それこそ、可能性にすぎない。 絶対に そうだと言い切る根拠は、氷河とて持っていないはずである。 だが、可能性はあるのだ。 可能性は否定できない。 可能性というものは、“ある”ものなのだから。 平尾丸は――業平は探し続けたのだ。 彼の会いたい人、彼の幸福を。 瞬は 蒼白になった。 氷河が、瞬の髪に手をのばしてくる。 「自分が何を探しているのか わからないまま探し続けるよりはずっといい。光が見えている。自分が光に向かって歩いていると思える。たとえ、光を手に入れることができなくても」 『俺は その光を手に入れた』と 氷河が言わないのは、平尾丸への思い遣りだろう。 それは、瞬への優しさでもある。 氷河の優しさに応えるために、瞬は ここで泣くわけにはいかなかった。 世界は広く、時の流れは永遠。 人と人の出会いは、どんな出会いであっても、その無限の ある一点で 偶然に生じる、一つの奇跡なのだ。 人は、その奇跡を求めて、あるいは 出会うことができた奇跡に感謝して、自身の生を生きていくしかない。 「マーマ。丸ちゃんがいなくなっても、ナターシャがいるヨー」 「俺もいるぞ」 「パパもイルー」 出会うことのできた奇跡。 心配そうな目をして、マーマの顔を見上げてくるナターシャを、瞬は強く抱きしめた。 Fin.
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