「あー。俺も、どの分類項とは言わないけど、分類できちゃうなー」 「僕も、高校で打ちのめされて、一念発起したタイプだ。高校から努力開始タイプは、3分の1より もっと多いだろ」 「なに言ってるの。テストはコツよ。テクニック!」 皆が口もきかずに 黙々と勉強している教室で話していたせいか、瞬と石屋の会話は他の学友たちの耳にも届いていたらしい。 いつのまにか、瞬と石屋の周囲には たくさんの学生が――というより、今日の午後からの口頭試問を受ける すべての学生が――集まってきていた。 悪足掻きをやめたのか、あるいは、試験前の緊張感を保てなくなったのか、試験前の学生には何の益もない無駄話に、全員が興味津々の体を示している。 普段は、他人への関心を露わにすることのない学生ばかりなので、これは かなり珍しい事態だった。 もしかしたら彼等は、実は他人に無関心な人間というわけではなかったのかもしれない。 これまで 関心を持てるほどの“他人”に出会う機会が少なかったのか、無関心を装っていただけなのか、あるいは、他人に関心を持つ余裕がなかったのか。 解剖学実習で、医師の仕事は 人と対峙する仕事だと気付いた者もいるのかもしれない。 集まってきた学友の一人に、 「城戸くんは どのタイプなんだ」 と問われ、瞬は内心で困惑した。 瞬は、余人に関心を持たれては困ることばかりを抱えた人間だったので。 その問い掛けに答えないために、瞬は、話題を、彼等の現在の最大の関心事(であるはずのこと)に変えた。 「そんなことより、解剖学の口頭試問のことですけど――」 「城戸くんは余裕だろう」 「専門課程に入ったばかりの学生の解剖学実習に 附属病院の外科部長が見学に来るくらいなんだから」 「切る、剥がす、縫う。城戸くんの手際って、まるで その道のプロが お裁縫してるのを見てるみたいよね」 「しかも、恐ろしく速い」 ここで『本当は もっと速くできます』と言っても、もはや妬みを買うことはないだろう。 それほど、外科手技に関して、瞬と瞬以外の学生の間の技術の差は大きかった。 そもそも、外科は知識よりセンスがものを言う分野なのだ。 それは、前期数ヶ月間の解剖学実習で、瞬の学友たちも わかっているはず。 無論、瞬は、余計なことは言わなかった。 「実習と試験は別物ですから、僕に余裕なんか ありませんよ」 学友たちの称賛を適当に流して、瞬は本題に入った。 「もちろん、皆さんのことですから、夏休み中に十分 勉強なさって、試験の用意は怠りないと思いますが、300以上ある身体の部位の一つに関して、教授が満足させられる説明を5分前後。教授の質問にも答えなければならない。どの部位を指定されるかどうかは わからない。カメラアイの能力があってテキストを丸暗記できていない限り、あるいは、よほど運がよくない限り、合格は容易なことではないでしょう。それで、僕、思ったんですけど」 ここにいる学生の三人に一人は、テストで合格するコツをマスターしたテクニック派(らしい)。 だが、彼等が有しているテクニックは、複数の試験問題作成者が 学生の知識の有無や多寡を判定するために、公平性と客観性を重視して作成した試験問題に関するテクニックであって、感情のある一人の教授が 一人一人の学生のために用意する試験の内容を想定して養われたテクニックではない。 彼等は、良くも悪くも、公平な試験の勝利者たちなのだ。 だが、大学とは――そして社会も――そんなにも美しく公平ではない。 「解剖学の海部教授は 厳しい方ですが、最近 初めてのお孫さんができて、お孫さんと過ごす時間を長く取りたいとお望みのようです。口頭試問で不合格者が大勢出て 追試者数が増えれば、その分 学生の指導に時間を割かなければならなくなる。教授は、それは避けたいと考えていらっしゃるでしょう。ですから、教授は、おそらく、それぞれの解剖班が失敗した部位や 特に難儀した部位について質問してくるんじゃないかと思うんです。僕たちが その部位についてのあれこれを、特に記憶に留めていることを期待して」 「300以上の部位を満遍なく覚えるのが、確実に試験に受かる唯一の道だろ。それは いい医師になるための最良の道でもある」 そう物言いをつけてきたのは、趣味が勉強派の学生か、地道な努力派。 テクニック派よりは、瞬も彼のその姿勢には好感を抱く。 だが、 「実際の医療の現場では、加療や施術の前に いくらでも 医学書で調べたり 論文を読んだりすることができます。何もかもを事細かに覚えている必要はないんですよ。すべてを覚えても、その知識は すぐ古くなる。古い知識での診断は、救えたはずの命を救えない事態を招くこともあるかもしれません」 というのが、現実なのだ。 「そりゃ、そうだ」 「ええ。で、僕、皆さんの班のレポートを読ませていただいたんですが、A班は、大脳の静脈の処理で手間取りました。B班は腹部の大動脈で切る箇所を誤ってリカバリーに時間を費やしました。C班は、脊髄神経の解剖に4日も時間を取られています。そんなふうに各班に出題ポイントがあるんですよ。試験までの数時間、そこを重点的に――」 「G班は、大きな失敗がなかったぜ。城戸さんがいてくれたから」 石屋が恨めしそうに、瞬に物申してくる。 瞬は困ったように首をかしげた。 「僕がいたせいではないでしょうが、G班とJ班は大きな失敗がありませんでしたから、他の班とは別の部位――甲状腺周辺か特殊内臓遠心性線維、手根骨。ちょっと範囲が広くなりますが、その辺りを指定されるんじゃないかと」 「それでも、随分 狭まる。どこを読み返せばいいのか 見当もつかなくて、俺、さっきからテキストの目次ばかり ぼんやり眺めてたから」 弾んだ声で そう言ったのは、J班のリーダー格だった28歳の学生。 一度 社会に出てから医師を志した人物で、彼は瞬の同期生の中では最も意欲的な学生だった。 「ええ。外れていたら申し訳ありませんけど……。第二担当の助志田教授は海部教授の後輩ですから、海部教授の方針に従うでしょう」 瞬は自信なさそうに告げたのだが、瞬の学友たちは、その表情に にわかに意気込みを漂わせ始めた。 特にG班とJ班のメンバーは目の色を変えている。 なにしろ人体は広大無辺すぎて、この試験には ヤマのかけようもなかったのだ。 「城戸くん、他の班のレポートまで、全部 読んだの」 と、呆れたように問うてきたのは、瞬と同じG班だった女医の卵だった。 頸神経叢の取り出しを うまくできる自信がないと言って、その部分の処理を瞬に丸投げしてきた内科志望の女子である。 「ざっと目を通しただけです。出題する教授の考えを探ろうと思って。実際に解剖に当たった学生当人は、自分のことだからこそ、前向きだからこそ、乗り越えた試練のことを忘れがちなんですよ」 「は……」 彼女の溜め息は、まるで肩から生まれたようだった。 「さすが。城戸くんって、第二外国語にドイツ語を選んだ理由が、『医学をやるのに有利だから』じゃなく、『フランス語、ロシア語、中国語、ギリシャ語は ひと通り話せるから』だったんでしょ。いったい どういう半生を送ってきたわけ」 半生とはまた、随分と大袈裟な物言いである。 瞬はまだ、日本人の平均寿命の4分の1の時間しか、生きるということをしていない。 「ヤマのかけようがなかったので、そのヒントを探ろうとしただけです。今日の口頭試問で合格できないと、2ヶ月後の追試に向けて、また あの厚い解剖学のテキストの読み直しですから……。それはそれで有意義なことでしょうけど、その分、先に進むのが遅れます」 瞬に そう言われて、皆は試験前の緊張感を取り戻したらしい。 「A班は、大脳の静脈か。硬膜静脈洞、浅大脳静脈、下矢状静脈洞あたり。面倒なとこだな」 「B班は、腹大動脈――上行大動脈、大動脈弓、下行大動脈、胸大動脈、腹大動脈。読み直しておこう」 「ああ。とりあえず、すべては 目の前の試験を乗り切ってからだな」 瞬の披露した試験のヤマの内容を反芻しながら、彼等は 再び 各自のテキストやノートに向かい始めた。 ヤマをかけて試験に臨むことの是非は ともかく、瞬のヤマかけは的確だった。 |