解剖学口頭試問は、1班4名ずつが教授室に呼ばれ、二人の教授と対面で行なわれる。
自分の班の試験が終われば帰っても構わないのだが、その日、学生たちは自分の試験終了後も 申し合わせたように階段教室に残っていた。
それは例年にないことだったらしいが、全員の試験を終えた解剖学の教授たちが階段教室にやってきて、試験の合否を その場で発表したのもまた、過去に例のないことだったらしい。

「口頭試問の合否は、例年なら 試問の3日後に発表するのだが、今回は、合否の判定に迷う学生が一人もいなかったので、今、発表する」
二人の教授が交代で学生の相手をしたとはいえ、5時間近く ほとんど休みなしで試問を続けていたのである。
50歳を超えている海部教授の顔には 疲労の色が濃く浮かんでいたが、その声は晴れやかだった。
「各自、わかっているとは思うが、全員 合格だ。例年の合格率は70パーセント。私が解剖学実習を指導するようになって12年。これは初めての快挙だ」
教授の口から合格発表――まさに合格発表――が為されると、教室内に どっと歓声が上がった。
「3日後の私の講義は休講だ。追試の説明をする必要がなくなったからね。質問があったら、これから10分間 受け付ける。お疲れさま」

教授が教壇を下りて 教卓の脇の椅子に腰掛けると、瞬の学友たちは、教授がまだ教室に残っているというのに、瞬の周りに集まってきて、口々に礼を言い出した。
80数名分の『ありがとう』。
G班とJ班の学生が 特に感謝しているようで、彼等の中には 瞬に握手を求める者までいた。

「城戸くんって、一人暮らしなんだっけ? どこに住んでるの」
と 瞬に尋ねてきたのは、試験前に 力強くテクニック派を宣言した女子学生だった。
「は?」
瞬が首をかしげると、慌てたように顔の前で大きく両手を振る。
「あ、変なことは考えてないのよ。そっちに足を向けて眠らないようにしようと思って。城戸くん、私の試験の神様だから」
歳に似合わず、古めかしい迷信じみたことを言い出した学友に、瞬は やわらかく微笑した。

「足を向けて眠ってくださっても構いませんよ。その代わり」
「その代わり?」
「とりあえず、僕、今日の夕食を奢るよ」
「それ、城戸くんを誘いたいだけだろ」
脇から茶々が入ったが、瞬は聞こえない振りをした。
そういう礼は、されても困るのだ。

「今日、僕の誕生日なんです。『おめでとう』って言ってくださいませんか」
「言ってくれる人、いないのか?」
「いないこともないんですけど、解剖学実習で、生きることの意味を考えるようになって……。大勢の人に そう言ってもらえたら、嬉しくて、生きることに喜びを感じられるかなって思ったので……」
それは初めての解剖学実習を終えた医者の卵たち全員に共通した思いだったらしく、瞬が求めた“礼”に、医学生たちは神妙な顔で頷いた。

「そんなことなら、お安い ご用だ。せーの!」
と、学生たちに号令をかけたのは、石屋だった。
その号令に従って、80数名の人間の、
「おめでとう!」
が教室内に響く。
「ありがとうございます。後期の講義も頑張りましょうね」
瞬が学友たちに返礼をして椅子から立ち上がったのは、このタイミングを逃すと、学友たちの誰かに捕まってしまいそうだったから――だった。
瞬は、今日は、これから一人で行きたいところがあったのだ。

瞬の危惧は現実のものとなっていただろう。
教室を出ようとした瞬を、教壇の脇にいた海部教授が呼びとめなかったら。
教授に捕まってしまった瞬を、名残惜しげに その場に残し、瞬の学友たちは三々五々 教室を出ていった。
「20歳かな。誕生日、おめでとう」
教え子たちの話を聞いていたらしい海部教授が、瞬の誕生日を祝ってくれる。
瞬は恐縮して、教授に頭を下げた。

「あまりに学生たちの成績がいいので、最後の班の学生に訳を聞いたんだよ。君が、私の口頭試問のヤマかけをしたそうじゃないか」
「あ……」
「見事に読まれた」
教授のその言葉に、瞬は少なからず慌てたのだが、教授は機嫌を悪くしている様子はなかった。
孫と過ごす時間が確保されたからか、追試を受ける学生の指導をせずに済むことで負担が減るせいか。あるいは、学生の好成績は指導者には やはり嬉しいことなのか。
教授は いつになく にこやかだった。

「君は、判断が早く、しかも的確。手先は器用。手技は繊細。スピードは 熟練の外科医も舌を巻くほど。実習を見ていて、君は絶対に外科に進むべきだと思っていたんだが、城戸くんは臨床もいけそうだ。臨床は、技術より 人を見る仕事だからね。解剖学実習初日、献体に向き合って 泣いている君を見た時には、人体解剖で最初に脱落するのは君だろうと思ったのだが、私としたことが とんだ見当違いをしたものだ。君は専門を決めるのに苦労しそうだな。どれも完璧。精神面も大人で、この大学の学生にしては、常識を実践する社会性もある」
「ありがとうございます」
教授が そんな発言をするところを見ると、この大学にコミュニケーション障害の学生が多いというのは、案外 事実なのかもしれない。
そんなことを思いながら、瞬は教授に礼を言った。

「まったく……こんなに綺麗なのに。天は二物を与えるんだな」
毎日のように肌の下の筋肉や神経を見ている教授でも、表面的な美醜を意識することはあるらしい。
意外に思いながら――瞬は 教授に苦笑を返すことしかできなかった。






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