氷河の店のドアを、瞬は ほぼ開店時刻に開けたのである。 この店に、開店時刻が過ぎてから ドアを開けて堂々と入店するのは、今日が初めて。 なにしろ未成年だったので――これまでは、開店準備中にしか店内に入ることができなかったのだ。 「瞬」 開店時刻を過ぎたばかりだが、氷河は かなり前からカウンターに入って あれこれ準備をしていたらしい。 今日 最初の客の名を、彼は いつも通りのイントネーションで呼んだ。 この時刻に 瞬がバーに入っていることの意味は わかっているのだろうが、氷河は 改まって『おめでとう』を言うようなことはしなかった。 「めでたくアルコール解禁だな。今日は奢るぞ。ノンアルコールのものなら、未成年が飲んでも 法的には問題がないのに、糞真面目に我慢していたんだから、派手にいこう。いいコニャックがあるぞ」 「我慢していたわけじゃないよ。シンデレラをちょうだい」 記念すべきアルコール解禁の日に 堂々と(?)ノンアルコールカクテルをオーダーしてくる瞬に、氷河が露骨に渋面を作る。 「そんな顔しないで。少しずつ 慣れていくよ。氷河の機嫌を これ以上 悪くしないために」 仲間の成人――というより、アルコール解禁――を祝うべく、手ぐすね引いて待っていてくれたのだろう氷河のために、瞬は、『兄さんが帰ってきた時、一緒に飲めるようになっていたいから』とは言わなかった。 せっかくの記念日に、氷河の機嫌をこれ以上 悪くしたくない。 だから瞬は『氷河のために』と言ったのに、その名を この場に持ち出したのは氷河の方だった。 「一輝が帰ってきた時、おまえが飲めるようになっていたら、おまえも大人になったんだと、奴も感激するだろうに」 瞬の兄を引き合いに出してでも、瞬に酒を飲ませたいと思っているのか、その名を口にするのが瞬ではなく自分自身なのであれば、妬心も対抗心も生じないのか。 どちらなのだろうと 暫時 迷ってから、瞬は 無理に、氷河も大人になったのだと思うことにした(氷河は 瞬より先に成人していたのだが)。 氷河の店は、押上――数年後に完成予定のスカイツリーの徒歩圏内にある。 人付き合いが苦手と公言し、実際 興味のない人間に対しては冷酷なほど 関心を示さない氷河。 社会性皆無と思われていた氷河が、店を1軒任されることになったと、突然 瞬に知らせてきたのは、今から1年前――より正確には10ヶ月前――彼が20歳になる少し前のことだった。 数年後に 押上にスカイツリーがオープンすることを見越して、今から店舗物件を押さえておくために開く店で、それまで儲けは度外視。 スカイツリーの開業までに、バーテンダーとしての技術はもちろん、客のあしらい、仕入れから経理まで 一人でこなせるようになればいいと、店のオーナーは言った。 ――と、氷河は瞬に言った。 『スズメやムクドリじゃあるまいし、集団でオベンキョーなどしていられるか!』と言い張って 進学を全力で拒んだ氷河が、手っ取り早く自立独立できる道を模索し 辿り着いたのが この店――ということらしい。 店のオーナーの“タケミチさん”こと蘭子ママと氷河が どんなふうにして知り合ったのかは知らないが、儲けを度外視し 修行の場として店を1軒 任せるほど氷河を信頼してくれる人を、瞬は 見る目のある人だと思い、会う前から好意を抱いていた。 実際に会った時には、いろいろなタイプの人間を見知っている瞬も、その特異性に少々――かなり――驚いてしまったのだが。 氷河は、愛想のないのは相変わらずだが、そこは酒の味と容姿で補うことができているらしい。 バーテンダーとしての技術や 店の運営に関しての あれこれは あっというまに覚え、儲けは度外視のはずの店で、氷河は 蘭子の期待以上の利益をあげているようだった。 「氷河ちゃんは、顔だけじゃなく、頭も勘もセンスもいい。氷河ちゃんが目の保養になる容姿の持ち主だということを抜きにしても、氷河ちゃんの店は すぐに流行り出すわよ。むしろ、スカイツリーが開業して、これまでと違う人の流れができてからの方が心配。もっと大きな店を確保すべきだったかもしれないわ」 とは、蘭子の弁。 「でも、いいバーっていうのは、粋な男たちが日常を忘れ、街の喧騒を逃れて、静かに過ごす特別な空間であるべきなのよね」 嬉しそうに そう言いながら、 「いい男ってのは、頭もいいものなの。お勉強ができるって意味じゃなく、地頭がいいって意味ね。てゆーか、頭のいい男が いい男になるのよ」 といった調子で、蘭子は氷河を大絶賛だった。 それはそうだろうと、瞬は 蘭子の意見に完全に同意していた。 なにしろ 氷河はアテナの聖闘士――アテナの聖闘士になれた男なのだ。 修行の内容と意味を理解できないまま、肉体の鍛錬だけを続けていても、人は聖闘士になることはできない。 10年修行を続けても、小宇宙の何たるかを理解できず、当然 体得もできない者がほとんどなのである。 氷河は、頭がいい。 ただ感情表現が苦手で(億劫がって)、コミュニケーション能力を発動しようと思う機会が極少なだけで。 実は 氷河こそが、典型的“あの大学の学生”なのだと、今になって気付き、瞬は胸中で苦笑してしまったのである。 その苦笑を、勘のいい氷河に気付かれないようにするために、瞬は氷河に今日の報告を始めた。 「今日、解剖学の口頭試問が終わって、ひと段落。これから しばらく臨床講義が続いて、その後、外来実習や病棟実習が始まるんだ」 「そうか。教養課程は順調すぎるほど順調だったせいで、人体解剖初日には どうなることかと思ったが……。よかった」 「うん……」 5ヶ月前――解剖学実習初日、キャンパスを出た瞬は、自分の部屋には戻らず 氷河の部屋に行き、彼が仕事に出て戻ってくるまで、そこで過ごした。 ほとんど口をきかず、何もせず――氷河も何も言わなかった。 あの時、自分が何を考え、何を感じて そんなことをしたのか、瞬自身、わかっていなかった。 あの時には。 「解剖学実習は、技術より、医師を志す学生の死生観を問う実習だった」 命の消えた人間の身体に対峙した時、医師になろうとしている学生たちが何を考え感じるか。 死に直面すると、自分が医師に向いていないことを悟り、医学部を去る学生が毎年 若干名 出るらしい。 「解剖学の教授に言われたよ。あの時、僕がいちばん最初に脱落するだろうと思ったって。多分、僕が献体の前で泣いたから」 解剖学実習で献体を前に泣くような医学生はいない。 命の炎が消え、防腐処置を施された死体は“物”でしかない。 それは、生きていたことを感じさせない“もの”。 だからこそ 命の儚さを感じ、どうあっても最後には死ぬしかない人間の命を人為的に永らえさせようとする医師の存在に疑いを抱き 医学部を去る学生もいるのだが、大部分の学生は“もの”に感情を動かされない。 だが、瞬は 瞳に涙がにじんだ。 解剖台の上に載せられている献体が あまりにも――あまりにも、瞬が見慣れていた死体と違いすぎたから。 戦いに破れ絶命した者たちの身体と、解剖のために用意された献体の身体は、全く違うものだった。 戦いで倒れた者たちの身体は、生への執着が いつまでも身辺に くすぶっていて、魂がまだ そこに――いつまでもそこにいるようで、死んで なお、それは生きている何かだった。 死者への感情移入も容易だった。 瞬は、したくもないのに、死者に感情移入せざるを得なかった。 だが、解剖台の上にある献体の身体は、医学の発展のために、故人が自分の意思で提供したもの。 ある意味、満足な死を迎えた人間の器。 納得して死んでいった人の抜け殻なのだ。 「僕の涙は、目の前にある献体のためじゃなく、そういう死に方ができなかった人たちのためのものだったんだけど……」 今では、瞬もわかっていた。 人の死が悲しかったのでも、人の死が恐かったのでもない。 命の儚さに無常を感じたのでもない。 あの時、瞬は 悔しかったのだ。 “死”ほど公平で平等なものはないと思っていたのに――人種も性別も貧富も美醜も すべてを超越して、“死”だけは平等なものだと思っていたのに――“死”すら平等なものではなかったことが 悔しかった。 そして、望まぬ死を余儀なくされた人間の死を多く知っている仲間の側にいたかった。 あの日、瞬は、氷河の小宇宙、氷河の匂いのする場所にいたかったのだ。 「あの時は、教授だけじゃなく 同期生にも、医者に向いていないんじゃないかと心配されたよ」 であればこそ 彼等は、実習開始後の瞬の手技の巧みさに 必要以上に驚き 絶賛することになったのだと、瞬は思っていた。 だが、外科手技など、遠からず 人の手に代わって機械が行なうようになる。 医師の存在意義は、そんなところにはないのだ。 「人はいつか必ず死ぬ。絶対の死の前では 医者なんて無力、存在する必要などないんじゃないかと迷って医学部を去っていった学生もいた。でも、僕は――僕は、有能な医師になって、生きたいのに死にかけている人を助けたいなんて、綺麗事を言うつもりはない」 「では、おまえは何のために医者になるんだ」 声も言葉も冷ややかに感じられるほど落ち着いているのに、瞬に問うてくる氷河の青い瞳の奥には、優しい熱が横たわっている。 瞬にとっては、氷河こそが最良の医師だった。 氷河が いちばん、どんな優秀な医師よりも巧みに確実に、瞬の心身を安らげてくれる。 「僕は、僕が出会う人たちに、望み通りの死に方をさせてあげたい。80歳で孫たちに囲まれて死ぬのが その人の望みなら、その願いを叶えてあげたいんだ」 「望み通りの死に方……か。それを実現した者は――確かに、俺たちの周囲には ほとんど いないな」 「うん……。望み通りの死に方が まだない人は、それが見付かるまで 生きていられるようにしてあげたい。僕が医者になるのは、そのためだよ」 そんな考えの医師がいることが許されるのかどうかは わからない。 だが、志半ばで死んでいった者たちの死だけを見てきた瞬の、それが 偽りのない今の気持ちだった。 |