青い瞳の…(看護の日〜なんじゃそれ〜編)







「よー、氷河、瞬、おっはよー♪ 夕べも頑張ったか――っっ♪♪」

星矢は、まるで重い鉄球付きの足枷から解き放たれた囚人のように、朝からとんでもなく元気だった。

ゴールデン・ウィークも終わり、世間の会社員や学生たちは、いわゆる日常の生活に戻ってしまった5月の晴れた朝。
広い庭に向かって開け放たれたラウンジの窓からは、近付く夏を知らせるような暖かい微風の訪れ。
常識の鎖から解放された人間がどれほど天衣無縫になれるものかを体現する星矢の朝の挨拶は――こう言ってしまっていいのかどうか、筆者も判断に迷うところではあるが――実に爽やかだった。


五月晴れの空、心地良い風、いつも通りにこにこしている瞬と、いつも通りむっつりハッピーな氷河。

その場で灰色に打ち沈んでいるのは、常識世界と非常識世界を隔てる河を飛び越えてしまった星矢の朝の挨拶に深く吐息する龍星座の聖闘士だけだった。


「おはよ、星矢、紫龍。やだな、星矢。僕たち頑張ったりなんかしないよ。頑張ったりなんかしなくても、いつの間にか朝だもの。なんだか最近夜が短くなってきたから困ってるくらい」
星矢の挨拶が挨拶なら、瞬の答えも答えである。

(そんなに毎晩元気で、いったいおまえら、いつ睡眠をとってるんだ)
――とは、常識人の紫龍には到底尋ねられるものではなかった。

たとえ、どれほどその答えを知りたくても、である。常識人とは、かくも不便なものなのだ。
いずれにしても、こーゆー場合、紫龍にできることはただ一つ、河向こうにいる三人の友人を、奇異の目で見ないようにと努めることだけ。


人は誰でも一人で生まれ、一人で人生の苦難を耐え、一人で死んでいく――。それはわかっているのだが、ついひと月前まで同じ苦難を耐えてくれていた星矢が河向こうの住人となった今、世界中の苦難のすべてが自分の肩に重くのしかかってきているような気分の紫龍だったのである。
紫龍には、窓の外に広がる5月の青空が、ひどく切なく感じられて仕方がなかった。



閑話休題。

先月の花見での星矢の大悟から一ヶ月。孤独なイバラの道を歩んでいた紫龍の許に、その日の午後、強力無比な味方の訪れがあった。

もっとも、その男は、別に紫龍を励ますのが目的で城戸邸にやってきたわけではなかっただろうが。


「い……一輝…!!!!」

平生なら、彼が城戸邸に戻ってきた時、誰よりも瞳を輝かせて彼の許に駆け寄っていくのは、彼の弟だった。
しかし、今日ばかりはいつもと様相が違っていたのである。

瞬自身は、もちろん、いつもと同じように、突然現われた兄の側に駆けていこうとした。
しかし、その瞬を押しのけて、長い黒髪をたなびかせ(うええっ;)すがりつかんばかりの勢いで一輝の側に駆け寄っていったのは、両の肩に不幸をずっしりと背負いこんだ紫龍その人だった。

「一輝っ! よく帰ってきてくれたっっ!!!!」
(瞬を……瞬を叱ってやってくれ〜〜〜っっっ!!!!!!)

感動の涙に泣き濡れた紫龍に出迎えられた一輝は、はっきり言って、思い切り気分を悪くした。
まあ、当然ではある。
彼は、いつも通り、世にも可愛らしく清らかな最愛の弟の、
『わあ! 兄さん、兄さん、お帰りなさ〜い♪』
という出迎えの言葉と笑顔とを期待して、ここにやってきたのだから。


力強い味方の登場に感涙し言葉もない紫龍の横から、少々出遅れてしまった瞬が、それでも一輝の望むものを投げかけてくれなかったら、一輝はそのまま回れ右をして、再び放浪の旅に出ていたかもしれなかった。

「兄さん! わあ、兄さん、お帰りなさい! もう、兄さんてば、お正月にも戻ってきてくれないんだもの。僕、ずっと心配してたんですからね!」

見慣れた――だが、何度見てもいいものはいい――弟の嬉しそうな笑顔と声とに、一輝の不快感は少しばかり――否、9割方――霧散した。

「ああ、悪かったな。元気でいたか? 瞬」
「僕は元気です! 兄さんこそ」
「いらん心配はするな」
「そんなこと言ったって……。兄さんたら、電話の一本もくれないんだもの……」

何かをせがむ子供のような目をして拗ねた様子を見せる瞬に、一輝は僅かに目を細めた。
こうでなくてはならない。
彼が欲しかったのは、愛する弟のこーゆー可愛い出迎えであって、決してどこぞの長髪男の感動のむせび泣きなどではなかったのだ。


「それにしても……。何かあったのか。紫龍は何を泣いているんだ」
「え?」

兄に問われて、瞬は初めて、一輝の傍らに立つ紫龍の尋常でない様子に気付いたらしい。
長髪の友人の涙を、その大きな瞳でしばらくじっと見詰めていた瞬は、ややあってから、兄と紫龍とににっこりと微笑みかけた。

「紫龍は――紫龍も、久し振りに兄さんに会えて嬉しいんですよ。ね、紫龍?」
「え……いや、俺は……」
「紫龍には、他に泣いたりする理由なんかないもの。だよね、紫龍?」
「う……」

ここで『違う』と言いきれるなら、紫龍はとうの昔に河向こうの住人になってしまっていただろう。紫龍の“常識”は、『常識ある人間が瞬の“にっこり”に逆らうなどという危険な行為に及ぶべきではない』という、極めて常識的な判断を、この上なく常識的に下したのである。

「あ…ああ、その通りだ。よく帰ってきたな、一輝」

紫龍の肯定に、一輝は目一杯嫌そうに顔を歪めた。

「……気持ちの悪い奴だな」

瞬以外の人間の歓迎など嬉しくも何ともない一輝が、ぼそりと呟く。

妙に重苦しく、それでいて空々しい空気の漂い始めたその場を取り繕うために、瞬は意識して屈託のない笑顔を作った。
「やだな、兄さんたらなんてこと言うんですか。兄さんが帰ってきてくれたこと喜ばない人なんて、ここにはいませんよ」

そう言って、瞬は他の仲間たちを振り返り――振り返った途端に氷河の視線に出会って、瞬は息を飲んだ。

「あ……」

約一名、一輝が瞬の許に帰ってきたことを喜ばない男がここにいることに、遅ればせながら瞬は気付いた――のだろうと、星矢と紫龍は思った。
実際のところがどうだったのかは、わからない。
瞬と目が合っても氷河は顔色一つ変えなかったし、すぐに彼は黙ってラウンジを出ていってしまったから。
それが瞬の“目の命令”によるものなのかどうかさえ、星矢と紫龍には今ひとつ測りかねた。
測りかねはしたが、彼岸の星矢は、これからこの一組の恋人同士とその兄が何をしでかすことになるのかとワクワクしながら、
此岸の紫龍は、一組の兄弟とその弟の恋人がどういうことになるのかとハラハラしながら、 次の展開を待つことになったのである。


が。

緊張感溢れるこの場面は、約二名の観客の期待を裏切って、実に日常的かつ雅趣に欠けた一輝のセリフによって、ひとまずの幕を下ろすことになった。
すなわち、
「瞬。俺は昼飯がまだなんだが」
――である。

せっかく帰ってきてくれた兄を空腹にしてはおけないとばかりに、瞬は一輝をダイニングに引っ張っていき、主要人物三人が退場したことによって、城戸邸のラウンジには弛緩した幕間の空気が立ち籠める。



「うっひゃー! いったいこれからどーなるんだ、あの三人! すっげー楽しみーっっ!!」
と、彼岸の星矢はお気楽に盛り上がり、
此岸の紫龍はといえば、
(本当にどーなるんだ、あの三人。どきどき)
と、結局は星矢と大差ないことを考えていた(大差ないことを考えていたとしても、それを口に出さないことが常識人の常識人たる所以なのである)。


波乱の予感に、それほどに胸を躍らせた星矢と紫龍だったのだが、実に残念なことに、彼等はこの舞台の第二幕を観ることはできなかった。

第二幕の幕が上がったのは、その夜、瞬の部屋で、だったから、である。





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