「氷河、ごめんね……。僕、兄さんに逆らえないの。兄さんの目に逆らえないの。兄さんが望む通りの僕でいたくて、兄さんの期待を裏切って失望させたりしたくなくって、それで僕……。……僕、兄さんが、僕にどんな僕でいてほしいと思っているのか、兄さんの目を見るとわかっちゃって、だから……」

一輝の瞳が瞬に望んでいること。
それは、瞬に、何事にも挫けない強い人間になってほしいということと、そして、少しは子供の部分を残し、兄を頼る素直で可愛い弟でいてほしい――ということだった。

瞬は、兄の瞳をそう読んでいた。

その二つは決して相矛盾する望みではなかったが、両立の難しい期待像ではある。
それでも、瞬は、これまではそれなりに兄の期待に応えることができているつもりでいた――いはしたのだが。


「氷河、僕を嘘つきだって思う?」
瞬に切なげな視線を向けられた氷河は、いつも通り目だけで微笑って、左右に首を振った。

「僕のこと、嫌いになってもいいよ」
瞬が本心からそう望んでいるのでないことは、もちろん、氷河にはわかっていた。が、その言葉を聞かされた氷河の瞳だけの微笑には、僅かに翳りが差した。
それは、兄と恋人のどちらかを選べと言われたら兄を採る――という宣言以外の何物でもない。

氷河が瞬の言葉に僅かな怒りも感じなかったのは、もしここにいるのが一輝だったとしても、瞬は同じことを兄に告げるだろうことがわかっているからだった。

嫌ってほしいなどとは本当は少しも望んでいないのに――望んでいないのだということを訴えるために、瞬はそういう言い方をするのである。
瞬の本当の望みをわかっている相手に対しては。

それは瞬の正直さであり、瞬自身が自分の卑怯を自覚できる聡明さを持っているということであり――それ故、ある意味、不幸なことでもあった。

しかし、氷河の青い瞳は、伊達に瞬だけを見詰めているわけではないのである。
彼は、的確に瞬の瞳の色を読み取った。

そして、言う。
「俺は、おまえの望むことならどんなことでも叶えてやれるつもりでいたが、残念ながらそれはできない」
「どうすれば嫌いになってくれるの」
瞬の望む答えを瞬に返すのが、氷河の務めだった。

それが自分の本意か否かは、この際問題ではない。
とにかく、瞬が、それを望んでいるのだ。

「おまえが、俺のために一輝を避けるようになったら、俺はおまえを嫌えるようになるかもしれない」

「…………」

氷河の言葉が心底からのものなのか、それとも思いやりから出た虚言なのかは、瞬にはわからなかった。瞬は氷河の肩に頬を預けていて、彼の瞳を見ていなかったから。そして、瞬は、真実を知りたいとは思わなかったから。

「俺はおまえの望む通りにする。一輝の前で知らんふりをしていればいいんだな」
「氷河……」

それまで氷河の真意を見てしまうことを怖れて彼の肩に預けていた顔をあげ、瞬は初めて氷河の瞳を覗き込んだ。

「氷河も、ほんとは僕のために自分の意思を曲げてる? 僕のために我慢してる?」

言葉の上での自分の嘘を認めて、瞬は真剣な眼差しで氷河に尋ねた。

瞬に瞳を見詰められている時、氷河は嘘をつけない。

「おまえの望むことを叶えてやることが、俺の望みだ」
慎重に言葉を選び、氷河は、真実だけを告げた。

氷河の返答に、瞬が少しばかり苦しげに眉根を寄せる。
「……そういうの、よくないんじゃないかな。氷河の意思はどこにあるの」

「おまえの中に」

「……」

それは、本来なら、喜んでしまっていい言葉なのだろう。その言葉が恋人に告げられたものである場合には。
しかし、今、瞬は、恋人同士ではなく、人間対人間として氷河と話をしているつもりでいた。そして、瞬は人間としての氷河にも"好き"という感情を抱いていたから、彼の言葉を単純に喜ぶことも、単純に否定することもできなかった。

「……駄目だよ。やっぱり良くないよ、そういうの……」
言葉では否定しながら、瞬が機嫌の良い仔猫の仕草で、額を氷河の首筋に摺り寄せる。

それから、瞬は、
「僕の意思は兄さんの中にあるのかなぁ……」
と、小さく呟いた。


瞬の視線が自分の目と顔から逸れたのを幸い、氷河がぴくりと口元を引きつらせる。

「そうなのか?」

氷河に感情の起伏のない声で問われ、瞬は一瞬考え込んだ。

額や頬や腕に感じられる氷河の体温に少し陶然としながら、更に氷河に頬を摺り寄せる。

「僕……氷河の中にもあるみたい……」
そう思えてしまうことが決して不快に感じられないことに、瞬は内心驚いていた。

「人間って、ほんとは、ほんとの意味での自分の意思なんて持ってないのかもしれないね…。持ってる気になってるだけで、みんな、ほんとは、自分の心、少しずつ家族や友達や好きな人や守りたいものに預けてしまってるのかもしれない……」

それは自らを放棄することではなく、もしかしたらひどく幸福なことなのかもしれないと、瞬は思い始めていた。
実際、瞬は、自分が少しでも兄の期待に沿えるのであれば、それが嬉しかったし、自分を見詰めている氷河の青い瞳の中に幸せそうな光を見付けるたびに、胸が弾んだ。
兄や氷河に限らず、星矢でも紫龍でも見知らぬ人でも、楽しげな人を見ることで瞬自身も楽しくなれたし、打ち沈んだ人を見ることは瞬の気持ちをも沈ませた。

おそらくそれはとても幸せなことなのだと結論づけて、瞬は両の腕を氷河の首にするりとまわし、そのまま目を閉じた。
氷河のように、ただ一人の相手の中にすべてを預けてしまっている人間が、その内にはらんでいる危険性までは、今の瞬には思い及ばなかった。

瞬は、夏に向けて日毎に短くなっている夜に気をとられていたのだ。

氷河自身は、己れのいる場所の際どさに気付いているのかいないのか、いつのまにか平生の無口無表情男に戻ってしまっていた。
否、言葉を発するのはやめてしまっていたが、彼の瞳は無表情ではなかった。

なにしろ、瞬の腕が自分の首に絡み、瞬の唇が何かを待って焦れているような様子を見せ始めているのである。氷河に無感動でいろと要求する方が無理無体不粋というものだった。

『瞬の望みを叶えることだけが自分の唯一の望み』と豪語(?)する氷河は、もちろん、すぐに瞬の唇の望みを叶えてやろうとした――。



そこに。

「瞬、どこか具合いでも悪いのか? まだ11時にもなっていないっていうのに、もう部屋に引っ込……」

これまでいつもそうしていたようにノック無しで、先触れもなく瞬の部屋のドアを開けたのは、瞬の心のかなりの部分を預かっている瞬の兄その人だった。

それまで、雪柳の枝よりもしなやかだった瞬の腕と、桜の花びらよりもやわらかかった瞬の唇とが、一瞬にして強張る。
瞬は、全くもって言い逃れのできない状況下に自分自身を置いていた。


場所は瞬自身の部屋。
瞬のベッドに腰を降ろしている氷河の膝の上に、瞬は座っていた。しかも、その両腕は氷河の首にまわっている。
不幸中の幸いは、瞬がまだ服を脱いでも脱がされてもいなかったという一事に尽きる有り様だったのだ。

慌てて氷河に絡みつかせていた腕を離したせいでバランスを失い倒れかけた上体を氷河の腕に抱きとめられ、体勢が(事態も)ますます悪化する。

瞬は、自分の身体を氷河の腕に預けたまま、ドアの前に立っている兄に、泣きそうな目を向けた。



そして、瞬は知ることになったのである。
瞬が自分の心の一部分を兄に預けているように、自分の内にも、かなりの割合で兄の心が託されていることに。

兄の期待に反することをしたはずの弟に、一輝は何も言わなかった。
叱責も詰責も咎め立てもなしに、彼は無言でその場を立ち去ってしまったのである。






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