――結局は、一輝にとっても、瞬の瞳に逆らうことは結構な難事ではあったのだ。

強く優しく、弟に対しては理解と思いやりある兄――。
瞬が、それを兄に求めているのではなく、一輝をそういう兄だと信じてしまっていることが、更に事態を複雑にしていた。


それはともかく。

瞬の部屋からラウンジに戻ってきた一輝は、“常識の有意義”をこんこんと星矢に諭していた紫龍を捕まえ、低い声で問い質した。
「……いつからなんだ、あの二人。貴様ら、知っていたな」

一輝の身体は、強大な小宇宙ならぬ、静かな殺気に包まれている。
星矢と紫龍は、一輝が"その事実"を知ってしまったのだということを、即座に悟った。

で、紫龍は瞳を輝かせたのである。

いくら説得を重ねても、
『だってさー、氷河は瞬を好きで、瞬は氷河を好きなんだから、別にいいじゃん、朝までやりまくったってー』
と、柳に風、暖簾に腕押しの星矢より、本人が常識人か非常識人かはともかく、瞬の兄という立場からして、氷河と瞬の"ご乱行"を許せないはずの一輝の方が、常識陣営に引き込みやすいのは火を見るより明らかである。

紫龍は、この最悪事態を半ば以上喜んで、怒り心頭らしい一輝を常識陣営に引き込むべく、目一杯意気込んで身を乗り出した。ここいらへん、彼の常識の程度も怪しいものではある。

「そーなんだ! そーゆー不健全かつ非常識なことになっているんだ! 一輝っ、瞬を…瞬を叱ってやってくれっっ!!」

喜色と悲痛を相半ばさせ必死の形相で迫ってくる紫龍を、うるさくまとわりつくアブを追い払うように避けて、一輝は、ラウンジの中央にあった肘掛け椅子にどっかと腰をおろした。

「できるか、そんなことが」

今にも泣き出しそうな瞬の目――に、一輝は弱かった。
あの眼差しに何かを訴えられて、それに逆らいきれたことなど、一輝はこれまで一度もない。いっそ泣かれてしまった方がどれほどマシかと、あの眼差しに出会うたびに彼は思い続けてきたのだ。

その一輝に追い討ちをかけるように、
「そーだよなー、できねーよなー。氷河も瞬もマジだもーん。叱ったりなんかしたら、一輝、瞬に嫌われちまうぜー?」
と、間延びした星矢の声が河向こうから響いてくる。

「しっ…しかしだな、一輝! これは実に反社会的で人倫にもとる行為だぞ。おまえ、瞬が人様から後ろ指をさされるようなことになっても平気なのか!」

“紫龍の問題点”は実はそんなことではなく、氷河と瞬のそちら方面の活動が活発すぎることと、あの瞬があの顔で羞恥の色無く連発する言葉が彼の心臓に与えるショックの方だったのだが、いかんせん、今となっては、紫龍の味方はもう、常識・人道・倫理・道徳しかなかったのだ。

そんな紫龍に、一輝があからさまに侮蔑の目を向ける。
「そんなくだらない理由で咎めだてしたら、いくら瞬でも、俺の神経を疑うだろーが!」

倫理・道徳を『くだらない』の一言で切って捨てるあたり、実は一輝も常識を超越した場所を住処としている人間なのかもしれない。

が、紫龍としては、一輝の居住地など、この際問題ではなかった。
とにかく一輝は、最後の頼みの綱なのだ。
「だが、一輝! おまえが一言、『やめろ』と言いさえすれば…! 瞬は、おまえの言うことになら必ず従うだろう…っっっ!!!!」

悲愴感漂う紫龍の悲鳴にも似た訴えよりなお、一輝の返答は苦渋に満ちていた。
「だから、俺は何も言えんのだ」

不条理としか言いようのないこの事態に苛立ちを隠しきれず、一輝は小さく舌打ちをした。



その時。


「あの……兄さん…?」
ラウンジの扉の前に、初めて職員室に呼び出しをくらった優等生のような様子の瞬の姿が現れた。
後ろには、教師の呼び出しなど屁とも思っていない問題児のごとき表情の――もとい、無表情の――氷河が付き添っている。

兄の側に近付くのをためらっている弟のために、一輝は殊更何気なさを装って尋ねたのである。
「どうした、瞬。恐い夢でも見たのか」

恐い夢というなら、確かにそれは恐い夢だったろう。
瞬は、兄と自分のために、いつまでも兄の翼の下で安らぐ素直で心優しい弟でいたかったのだから。
絶対安全な兄の翼の下から、勝手に外に飛び出して、おいたをしているところを見付けられてしまったのだから。

瞬は、兄のその言葉をどう解釈すべきか、しばし迷った。
それは勝手に外に遊びに出た弟を暗に責める言葉なのか、あるいは――何も見なかったことにするための言葉なのかと。

伏せていた瞼をあげ、恐る恐る兄の目を覗き込む。
そして、瞬は兄の言葉の真意を知った。

「あ、何でもありません。……あの……兄さん?」
「なんだ」

兄のその素っ気なさに、瞬は半ばうっとりしていた。
理想の兄以上の兄がここにいるとさえ、瞬は思った。

「僕、兄さんが大好きです」

「……そうか」
この一言を得るためになら、どんな理不尽にも耐えてしまえる我が身の強靱さを胸中深く嘆きつつ、一輝は可愛い弟のために微かに頷いてみせたのである。






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