星矢がハヤテ号とともに城戸邸を出た頃、瞬はひとり姿を消した兄の手がかりを求めて思い出の大樹のもとへ訪れていた。

 そこはかつて一輝と瞬が幼い頃、兄が拳を鍛えるために来る日も来る日も拳を打ち込んでいた秘密の大樹だった。

 瞬は日本に戻ってやっと訪れることができた懐かしい場所への郷愁と、兄の叛乱のためにそれを喜ぶことのできない悲しみを同時

に噛み締めていた。

 

 兄さん…。どうか…、これ以上罪を重ねないで。元の強くて優しい一輝兄さんを思い出して…。

 

 瞬は兄の拳の跡を細い指先でそっと辿った。あまりにも規律正しく一心不乱の思いが込められた拳の跡。この正義感溢れる熱い兄

が仲間に狂拳をふるうなんて。瞬はそう考えて心底悲しい気持ちになった。

「兄さん…」

 涙が溢れて来そうだった。

 その瞬間、大樹に打たれた拳と拳の間に十字の亀裂が走った。

「?!」

 瞬が不穏な気配に咄嗟に身を避ける。瞬の判断は正しかった。瞬が身を翻したほんの一瞬の後、大樹は亀裂の通りに大きく切り裂

かれたのだ。

 身をかわし、瞬時に鎖を構え神経を緊張させる瞬の耳元に、不敵な笑い声が響いた。

「さすがは一輝様の弟よ…」

 瞬は声のする方向を見定めて顔を振る。しかし、声の主は鮫のように瞬の周囲を旋回しているかのように気配の所在が掴めない。

瞬は警戒を強め、全方位に注意を払った。

「しかしこれでお前と一輝様を繋ぐ絆はなにもなくなった…」

 瞬は無意識に強く鎖を握り締めた。

「誰だ! どこにいる! 姿を見せろ!!」

 瞬は叫んだ。

 また、笑い声が響く。

 瞬の心に、十字を見た瞬間から沸き起こった嫌な予感が消えない。

 十字。ノーザンクロス。それは、氷河のもの。まさか…、まさか…。

 その気持ちに追い討ちをかけるように、瞬の周囲には雪が結晶のまま降り始めた。

「バカな! この季節に…! こんなことができるのは……」

 瞬は雪の結晶に我を忘れて喫驚した。その心が隙となる。瞬間、強烈なブリザードが瞬の左脇から吹きつけた。魂をも凍りつかせる

ブリザードは、拳に乗って、瞬の腹部を直撃した。

「かはっ」

 予期しない猛攻に瞬が体を折る。そこへ、容赦なく次の拳が襲ってくる。次の敵の右拳はきれいに瞬の頬を打った。激しい衝撃に瞬

は、早くも積もり始めた雪原に無様に倒れこむ。

 こ、これは…。ダイヤモンドダスト…。まさか…氷河が……!

「な…、なぜだ氷河…、なんのためにこんなことを……」

「フッ、この程度でもう致命傷か。やはりお前は一輝様の弟とは思えん。この黒い吹雪で一思いに楽にしてやろう」

 氷河は横たわる瞬を片手で抱え上げ、とどめの一撃を構えた。

 黒い雪が後から後から降り注ぐ。

 瞬は気が遠くなった。

 まさか氷河が、僕達を裏切って…僕の命を…。

 氷河が…。

 そう思うと瞬はたまらなく悲しい気持ちになり、朦朧とする意識で視線を動かし氷河の顔を見た。黒い聖衣。まさか…。氷河までが…。

 けれど、彼がそれを望むなら…、僕は…。

 瞬が黒い氷河の前に意識を陥落しかけたとき、突然、黒い氷河の拳が凍結した。

「こ、これは…?!」

 黒い氷河が我が手を凝視する。

「それが本物のキグナスの凍気だ」

 あたりを闇の色に包んでいた黒い雪の結晶が、途端に本来の白い結晶に色を変えた。