なぜ ここはこんなに暗いのだろうと、真の闇の中で瞬は思った。 一瞬遅れて、ここがどこなのかすら わかっていない自分を自覚する。 そこは寒くもなく暑くもなく、真の闇の中であるがゆえに上も下もわからない奇妙な空間だった。 だから、瞬が自分の側に何かが――おそらくは人間が――いることに気付いたのは、視覚によってではなく、その気配を感じてのことだった。 否、気配というのは正しくないだろう。 それは小宇宙――のようなもの、だった。 決して攻撃的なものではないのだが、親しみやすいものでもない。 いずれにしても瞬には、自分と同じ闇の中にいる人物が何者なのかはわからなかった。 が、その小宇宙は微弱なものではなかったので、彼――彼女?――が聖闘士か、あるいはそれに類する者であることは間違いなかった。 それは、瞬がこれまで一度も出合ったことのない小宇宙だった。 兄のそれのように熱くなく、星矢のそれのように明るくもなく、紫龍のそれのように流動的でもなければ、氷河のそれのように冷たくもない。 黄金聖闘士にも匹敵するほど強大な、だが出合ったことのない小宇宙。 瞬は、これまでに自分が接したことのある小宇宙をすべて思い浮かべてみたのだが――神々のそれまでも――しかし、それは、やはり見知らぬ小宇宙だった。 では、この闇の中にいるのは未知の人物なのか――? だとしたら、なぜ、何のために、彼(彼女)と自分はここにいるのか。 考える間もなく、ふいに瞬は彼に動きを封じられた――強く抱きしめられることで。 おかげで 彼がなぜそんな行為に及んだのかに気付かされた瞬は、今は 彼の正体を見極めることよりも、彼の手から逃げることの方が優先されるべき問題になってしまったのだった。 彼の唇が瞬の頬に触れる。 人間の血液の温かさを 最もあるがままに外界に伝えるはずの その部位が、冷たさを感じることもできないほど冷たい。 闇そのもののように無機質な彼の唇の感触に ぞっとして、瞬は彼の腕と胸から逃げようとした。 「放せっ! 何者だ、僕をアテナの聖闘士と知っての――」 もしかすると彼は、この闇の中で、彼が今 抱きすくめている者の性別を見誤っているのではないか――と、瞬は疑ったのである。 この真の闇の中で、『見誤る』という言葉は適切なものではなかったろうが。 渾身の力を振り絞っても 引きはがすことのできない彼の腕と胸とに恐怖さえ覚え、瞬は我が身の自由を取り戻そうとして 闇の中でもがいた。 そして、なんとか――二人の間に僅かな隙間を作ることに成功したのである。 瞬は、自分に彼に抗うことができた事実に安堵して――つまり、彼は絶対の力を持っているわけではないのだ――そのまま、彼の手の届かない場所に移動しようとした。 ――その時。 「瞬、なぜ逃げるんだ」 「え…… !? 」 彼が闇の中で声を発する。 それは、瞬には非常に聞き慣れた声――毎日のように聞いている氷河の声だった。 だが、彼がその身にまとっている小宇宙が、瞬が毎日触れているそれとは全く違う。 それでも、それは確かに氷河の声だったのである。 瞬は戸惑い、戸惑いながらも闇に向かって尋ねた。 「氷河なの……?」 「なぜ逃げるんだ」 姿を確かめることのできない闇の中で、氷河が同じ言葉を繰り返す。 聞き違えるはずのない氷河の声。 瞬の戸惑いはますます大きくなっていった。 「逃げたりなんか……。ほんとに氷河? ここはどこ? いったい僕たちは――」 「おまえの姿の見えないところでなら、おまえの目を怖れずに済むかもしれないと思ったんだ」 「僕の目を怖れる……? どうして――」 瞬が問い返したことに、答えは返ってこなかった。 代わりに、一度は逃れかけることのできた闇の中の腕が、再び瞬を抱きしめてくる。 「あ……」 性急ではないが痛いほどに力のこもった、有無を言わさぬ抱擁。 実際に、それは痛かった。 骨が折れるほどではないにしろ、尋常の力ではない。 だが、瞬は、それが氷河の腕なのだと思うと、逃れようという気になれなかったのである。 氷河だと思えば、それは温かい。 そして、氷河といるのであれば、ここがどこなのか、この闇がなにゆえのものなのか、それすらもどうでもいいことのように思えた。 氷河の 僅かに上体をのけぞらせ、瞬は闇の中で固く目を閉じた。 氷河が告げた言葉の意味がわかるような気がする。 氷河のあの青い瞳を見ることができないのは残念だが、あの瞳に見詰められていることを知ったら、自分は萎縮して、彼の腕の中に収まっていることもできないだろう。 そんなことを考え始めた瞬を包むものは、既に抱擁ではなく愛撫に変わっていた。 地に着いているつもりだった足が、今は何にも触れていない。 ということは、自分はどこかに身体を横たえているのか――だが、いつのまに? 訝る瞬の脚の間に、氷河が身体を割り込ませてくる。 「あ……ん……」 瞬は、抵抗らしい抵抗もせずに、彼の前に身体を開いた。 闇は良いものだと、思うともなく思う。 闇の中でなら、いくらでも大胆になれる。 全身に闇の愛撫が至り、それは、瞬の心と身体を ゆっくりと熱く柔軟にしていった。 やがて、氷河が、闇をまとったままで瞬の中に入り込んでくる。 日の光に満ちていた室内に密やかに忍び込み、気が付いた時にはその部屋を覆い尽くしている夕闇のように、それは瞬の中に侵入し、あっというまに その闇は瞬の身体の奥の奥にまで達していた。 「瞬……」 闇の中で名を呼ばれ、その声に我にかえって初めて瞬は、自分の身体の中を侵しているものが 闇のように熱や形を有していないものではなく、熱く熱せられた鋭い凶器だということに気付かされたのである。 「いたい……っ! いやだ、氷河、やめて! 痛い……いや、ああ……っ!」 どれほど必死に訴えても、氷河はやめてくれないだろう。 それは瞬にもわかっていた。 彼は既に、瞬の身体の中にその凶器を突き立て、また引いては突き立てる行為を始めてしまっている。 「氷河、いたい……そんな……ああ……っ」 涙の混じった悲鳴で氷河に憐憫を乞いながら、瞬は、しかし、本当は知っていた。 それが氷河だから――この 鋭利な刃物で身体の内側を切り裂かれるような痛みも、まもなく心地良いだけの感覚に変化していくに違いないということが。 |