大きな波に飲み込まれ、水底深く引きずり込まれていくような感覚に幾度も襲われたような気がする。
そのたびに我を失い、一瞬の自我の死を味わい、氷河の手で死の域に至らされることは、なんと快いことだろうと思う。
予想していた通り、すぐに彼によって与えられる痛みは痛みでなくなった。
否、それは確かにいつまでも瞬の身体を痛めつけるものであり続けたのだが、氷河によってもたらされるものならば、それは心地良いだけのものだった。
瞬は、自分を包む闇が何なのか、なぜ氷河はそんな闇をまとっているのか などということは どうでもよくなり――考えられなくなり――、やがて その闇よりも深い眠りに引き込まれ、そして目覚めたのである。

真の闇の世界と思われた場所は、何のことはない 瞬自身の部屋だった。
瞬のベッドに上体を起こした氷河が、冷ややかな目をして、この部屋の主を見おろしていた。
夜はまだ明けきっていない。
早朝の薄闇の中で、彼はもう随分と長いこと そうしていたらしい。
瞬に寄り添うようにではなく、ベッドに対して直角の位置に座り、片方だけ立てた右脚の膝に腕を置いて、まるで自分には関わりのない何かを見物するような他人の目をして、彼はそこにいた。

「氷河……?」
その視線の冷たさに どうしても感じずにいられない違和感が、瞬の動作を緩慢にする。
のろのろと――むしろ、恐る恐る――上体を起こした瞬の視線を捉えると、氷河はにやりとあざ笑うような笑みを口許に浮かべた。
これは氷河ではない――少なくとも、瞬の見知っている氷河ではない――と、瞬は直感したのである。
だが瞬は、その名と その名の持ち主と同じ姿にすがらずにいられなかった。
「氷河……」
重ねて、その名を呼ぶ。
その名を聞いた彼が、その名の持ち主に戻ってくれることを期待して。
瞬の期待は、至極簡単に打ち破られてしまったが。

「そういう名らしいな。この男は」
氷河の声で、彼はそう言った。
そして、口許に刻んでいた嘲笑の色を濃くする。
「確か、この世で最も清らかなことを売りにしていなかったか、おまえは? それがまさか、見知らぬ男相手にあれほど淫らがましい真似をしてみせるとは」
瞬が受けた衝撃は、彼が告げた言葉の内容ではなく、その言葉が氷河の声と氷河の唇によって作られたものだという事実のために、より大きなものになった。
「あ……あなたは誰」
「見てわからないのか」
「が……外見と中身が違っているようだから――」
無理に気を張って、瞬は彼に問い返した。
だが声の震えは いかんともし難い。
氷河の姿をしたこれ・・はいったい何だろう――と思う。
アテナによって封印された神々の誰か――あるいは他の神。
そんな考えが、瞬の中で渦巻き始める。
人間の身体を支配するのは、神々の十八番ではなかったか。
しかし、だとしても、なぜ。

答えは見付からず、瞬の混乱は増した。
「この肉体の有する名は氷河だ」
「僕が訊いているのは、あなたの名だよっ」
その混乱を察し、楽しんでいるかのように、彼の態度は意地悪く悠長である。
瞬の鋭い訴えを、彼はなだめようとさえした。
「そう取り乱すものではない。取り乱す必要もないだろう。おまえを抱いたのは、“氷河”の身体で、それはおまえもわかっていたはず。それとも、おまえはこの男が嫌いだったのか」

それは氷河以外の人間に答える必要のないことである。
少なくとも、瞬は、彼だけには その答えを告げたくなかった。
だから口をつぐんだ瞬に、彼は揶揄するような笑みを向けてくる。
「それは失礼。私としたことがおまえの心を見誤ったか。では、次は別の者の身体を使うことにしよう。さて、おまえのお目当ては誰かな」
「やめてっ」
この者には、実際にそうすることができるだけの力があるのだろう。
瞬は叫ぶように、彼の言葉を遮った。
彼が、再度 口許に嘲笑を浮かべる――彼はずっと瞬に微笑を作ってみせているのに、目だけは全く笑っていなかった。

「やはり、この男でよかったのだろう? この男の声ひとつで、おまえは あの不自然な事態をあっさりと忘れ、身体を開いてみせた」
彼の言う通りだった。
彼は見誤っていない。
だが、だからどうだというのだろう。
だからといって、これは諾々として受け入れられる事態ではない。
「でも、あなたは氷河じゃない!」
「おまえに口付けた唇は氷河の唇だし、おまえの中に幾度も突き立てられたのは氷河の性器だ。不満はあるまい」
「……!」
彼が言葉にしたその行為の感触を思い出して、瞬は全身を震わせた。
氷河だと信じていたから受け入れ、その行為を歓びさえしたのだ。
だが、実際には自分は、見知らぬ誰かを我が身に受け入れ歓んでいたことになる。
心が違うのに――。

それは瞬にとって、ひどく浅ましく醜い行為だった。
それを、自分が為したのだと認めることが耐え難いほどに。





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