「心配なんだ」
「何が?」
「……わからない。ただ、おまえが傷付きそうで」

それは根拠のない不安だった。
だが、氷河には、根拠など必要なかったのである。
この先、アフロディーテの心情がどう動くのかを、氷河は、ある次元で、アフロディーテ自身りも知っていたのだ。

大人だろうが子供だろうが、男だろうが女だろうが、確固たる何かを自分の内に持てていない人間は、自分を優しく包み込んでくれるものに心地良さを感じる。
そして、いつまでもその感触を味わっていたいと願うようになる――のだ。


「傷付いているのは、彼の方だよ。僕みたいな年下の子供に、信じていた"力"で負けちゃって……。その僕が彼を心配してみせるのに、ますます腹を立ててるみたいだけど、落ち込んでるよりは怒ってる方がいいよね。それに──」

氷河の懸念になど気付いてもいないらしい瞬が、いつも通りの微笑を氷河に向けてくる。
「僕は滅多に傷付かないから。そうなっても、氷河が慰めたり励ましたりしてくれるし。僕は彼とは違って、人に同情されるのも慰められるのも平気だからね。むしろ、嬉しい」

「俺がおまえを慰める?」

氷河は、自嘲気味な薄い笑いを口許に刻んだ。

そんなことができたためしは、これまでにただの一度もなかった。

確かに、瞬は強いのだろう。
瞬は、生きていくのに邪魔なプライドや偏見や見栄に捕らわれていない。
素直な心はいつも柔軟で、大抵の障害をやわらかく受けとめてしまう。

氷河は、瞬の華奢な手と言葉と感触に、いつも恐ろしいほどの心地良さで、絡めとられていた。甘えを許してくれる優しさが、瞬には備わっていた。
誰をも受け入れてくれるに違いないと信じさせてくれる瞬という存在の持つ優しい感触が、以前は快く、今は――瞬を独占したいという気持ちに捕らわれてしまった今は――ひどく苦しい。


「そんなことがあったら、俺ももう少し自信をもって、おまえに――」
「僕に?」
「いや……」

その言葉を――『俺だけを見ていてくれ』という言葉を口にしてしまったら、瞬を困らせるだけなのだということはわかっていた。
瞬は、そういうことができるようにはできていない人間なのだ。

仕方がないので、わざと作り笑いを作る。――瞬のために。
「そんな時が来たら、たっぷり慰めてやる。これまで、おまえに頼りきりだった分もあわせて」
「氷河はいつも自分で乗り越えてきたよ」

「どうだかな……」

そんな時が、かつて一度でもあったのなら、氷河はとうの昔に瞬に自分の思いを伝えることができていただろう。
『おまえを欲しい』と言うこともできていたかもしれない。


自分が瞬を慰め力付ける機会を得られるのなら、いっそアフロディーテが瞬をきっぱりと拒絶してくれればいい――と、氷河は、一瞬だけ本気で願った。





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